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大阪のビジネスの中枢・船場

船場は、北の境が「土佐堀川」、南の境は「長堀川」(1964(昭和39)年に埋立て)、東の境は「東横堀川」、そして西の境は「西横堀川」(1962(昭和37)年に埋立て)という川に囲まれた地域。豊臣秀吉が「大坂城」築城時に、堺や伏見から商人を強制移住させてできたという商業の中心地である。職種ごとに店の地域が集中していた。今も、ビジネス街として知られている。


五代友厚を中心に創設された「大阪株式取引所」 MAP __

船場北浜は、江戸の昔から、両替商や米問屋、米仲買が集まる金融の中心。1878(明治11)年、五代友厚、住友吉左衛門、鴻池善右衛門らが発起人となり「大阪株式取引所」を設立した。1894(明治27)年、赤レンガ造3階建の取引所が竣工した。のちに手狭となり、1935(昭和10)年、写真の新古典主義様式の新館が竣工(設計は竹腰健造による)した。【画像は昭和初期】

戦後、「大阪証券取引所」となり、2014(平成26)年に「大阪取引所」へ改称した。建物は2004(平成16)年に全面改築されたが、玄関ホールや貴賓室は保存されている。

写真は「大阪取引所」前に建てられている「五代友厚像」。五代友厚は明治政府の参与や判事となるも官を辞し、実業界で名を馳せた。東の渋沢・西の五代と称された。

「堺筋」と「三越呉服店」 MAP __

大阪では、東西の道を「通」、南北方向の街路を「筋」という。その筋の一つである「堺筋」は、「御堂筋」が拡幅されるまでは大阪のメインストリートであった。「堺筋」には、1917(大正6)年に「三越」、1921(大正10)年に「白木屋」、1922(大正11)年に「高島屋」、1923(大正12)年には「松坂屋」と次々百貨店がオープンしたため、「百貨店通り」と呼ばれた。写真の中央奥が「三越呉服店」、その左手前の6本のイオニア列柱の並ぶ古典様式の建物は、1901(明治34)年竣工の「三井銀行 大阪支店」。【画像は大正後期~昭和初期】

「三井銀行 大阪支店」は1936(昭和11)年に「曾禰・中條建築事務所」の設計で建て替えられ、現在は「三井住友銀行 大阪中央支店」(写真中央下)となっている。「三越 大阪店」は2005(平成17)年に閉店、跡地には2009(平成21)年に日本で最高層(完成当時)となる分譲マンション「The Kitahama」(写真中央奥)が誕生した。

「高麗橋通」沿いには銀行街が発達 MAP __

写真の「高麗橋通」には、さらに西に至るまで銀行が並んでいた。左の建物は「三越呉服店」、右手前は「三井物産」。奥(西の方向)は、改築前の「三井銀行 大阪支店」。さらにその奥は、建物のコーナーのカーブが特徴の「高麗橋野村ビルディング」(1927(昭和2)年竣工)。【画像は昭和初期】

写真は現在の「高麗橋通」。右の建物が「三井住友銀行 大阪中央支店」、その奥に現存する「高麗橋野村ビルディング」の一部が見える。左の建物は「The Kitahama」。

「淀屋橋」「肥後橋」と「住友ビルディング」 MAP __

写真中央左に見える建物は、1926(大正15)年に第1期工事が竣工した「住友ビルディング」。シンプルかつ重厚なデザインだが、近づいてみると繊細な装飾が各部に施されている。「住友財閥」の経営統括本部ビルとして建築され、「住友合資会社」や「住友銀行」「住友金属」「住友生命」などの本社事務所が入居し、「住友グループ」の「総本山」的存在となった。写真手前が「淀屋橋」、奥が「肥後橋」。【画像は昭和初期】

かつての「住友ビルディング」は「三井住友銀行大阪本店ビル」(写真中央の薄黄色のビル)となっている。現在の北浜四丁目・今橋四丁目付近は「住友ビルディング(旧・住友ビル本館)」(写真左のビル)、「住友ビル2~4号館」など住友系のビルが建ち並んでおり、通称で『住友村』と呼ばれている。

『薬の町』道修町 MAP __

船場の道修町は、中国や国内で生産された薬を扱う薬種問屋が集中する問屋街として栄えた。江戸時代には、仲買人が株仲間として組織され、独占的に全国に薬を供給した。写真は昭和初期の道修町。【画像は昭和初期】

現在も道修町には「武田薬品工業」「塩野義製薬」「田辺三菱製薬」といった製薬企業が本社・大阪本社を構えている。写真右は「大日本住友製薬」の大阪本社、その奥の建物は1928(昭和3)年に「武田長兵衞商店」(現「武田薬品工業」)の本社として建設された「武田道修町ビル」。


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