河内地方では、16世紀末頃から綿作が行われていたといわれる。生産が飛躍的に伸びたのは江戸時代の「大和川」の付替え以後。旧川筋などが新田開発され、主に綿が栽培された。この綿から糸を紡いで手織りされた布は「河内木綿」と呼ばれた。当時の綿は繊維が短く、糸が太かったため、織りあげた布も厚く耐久性に優れ、衣料のほか、のれん、のぼり、蒲団地などに利用され、全国各地で愛用された。図は「高安の里」(現・八尾市東部)で木綿織りと木綿売買をしている家の様子で、機を織る女性、織りあがった反物を売買している男性などが描かれている。
「河内平野」は「大和川」が運んだ肥沃な土地で、古くより農業が盛んな地であった。江戸時代の「大和川」の付替え以降は多くの新田も開発され、「河内木綿」の産地となった。現・東大阪市域の「生駒山地」西麓の谷沿いでは水車を利用して製粉、油絞り、製薬などの産業も発達した。明治期以降は農業の近代化が進められ、現・柏原市周辺ではぶどう栽培も盛んになり、ワインも生産されるようになった。