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江戸・明治時代の農業・工業

「河内平野」は「大和川」が運んだ肥沃な土地で、古くより農業が盛んな地であった。江戸時代の「大和川」の付替え以降は多くの新田も開発され、「河内木綿」の産地となった。現・東大阪市域の「生駒山地」西麓の谷沿いでは水車を利用して製粉、油絞り、製薬などの産業も発達した。明治期以降は農業の近代化が進められ、現・柏原市周辺ではぶどう栽培も盛んになり、ワインも生産されるようになった。


「河内木綿」の産地として発展

河内地方では、16世紀末頃から綿作が行われていたといわれる。生産が飛躍的に伸びたのは江戸時代の「大和川」の付替え以後。旧川筋などが新田開発され、主に綿が栽培された。この綿から糸を紡いで手織りされた布は「河内木綿」と呼ばれた。当時の綿は繊維が短く、糸が太かったため、織りあげた布も厚く耐久性に優れ、衣料のほか、のれん、のぼり、蒲団地などに利用され、全国各地で愛用された。図は「高安の里」(現・八尾市東部)で木綿織りと木綿売買をしている家の様子で、機を織る女性、織りあがった反物を売買している男性などが描かれている。【図は江戸後期】

写真は八尾市恩智中町三丁目にある「茶吉庵」。江戸時代の木綿問屋「茶屋吉兵衛」の築250年になる建物が、カフェ、マルシェなど人々が気軽に訪れられる空間に再生されている。
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明治期に入ると、外国から繊維の長い綿や細い糸が安い値段で輸入されるようになり、機械化に適さなかった河内の綿は次第に姿を消した。写真は江戸時代の木綿問屋「茶屋吉兵衛」の「河内木綿」で作られた暖簾。近年、「河内木綿」を愛する多くの人々により、その技術が復元・継承され、郷土の誇る伝統工芸として脚光を浴びている。

石切の水車と産業

「生駒山地」西麓の石切地区では、江戸時代に水車を利用した産業が発展。「音川」の「辻子谷(ずしだに)」(現・東大阪市上石切町付近)では、寛永年間(1624~1644年)に胡粉(ごふん)製造、製粉、油絞りが始められ、元禄年間(1688~1704年)には製薬も行われるようになった。写真は1964年(昭和39)年頃の胡粉製造の様子。胡粉とは貝殻を粉末にして作る日本画に用いられる白色絵具で、「辻子谷」の特産物であった。【画像は1964(昭和39)年頃】

「辻子谷」の水車は、1915(大正4)年に43両と最盛期を迎え、うち約7割が製薬用であった。大正初期に電力が普及しても「辻子谷」では水車の利用が続いた。水車は電動機に比べて作業効率は劣るものの、製薬に適していた(処理熱で香りや薬効を損なうことなく、高速機械では作れない超微粉末が製造できる)ため、1943(昭和18)年時点でも38両が残っていた。戦後は電化の進展で水車の利用は次第に減少、1982(昭和57)年に最後の水車が止まった。写真は1985(昭和60)年に撮影された製薬工場の水車で、撮影当時は既に使用を終えていた。写真のように、明治期以降は建物内部に水を引込み水車を回していた。【画像は1985(昭和60)年】

かつて盛んであった水車技術を後世に伝えるため、「辻子谷」上流に、2004(平成16)年に直径6mの水車(写真)、2007(平成19)年に水車工場の1/4模型が復元され、構造や製粉の様子が見学できるようになった。
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宮沢賢治氏も訪れた「農商務省農事試験場畿内支場」 MAP __

「農商務省農事試験場畿内支場」は、1903(明治36)年から1924(大正13)年頃まで、「柏原駅」の北側一帯に置かれていた。全国で初めて稲の人工交配に成功するなど、稲の品種改良研究に関してはトップレベルにあったといわれ、最盛期には約58,000㎡もの試験用農地を擁していた。1916(大正5)年には「盛岡高等農林学校」(現「岩手大学農学部」)の学生だった宮沢賢治氏が、修学旅行で同級生らとともに見学に訪れている。【画像は大正期】

「農商務省農事試験場畿内支場」は現在の「市民交流広場」付近に庁舎があり、試験用農地は線路に二分され、東西に拡がっていたと推定される。写真は2015(平成27)年、JR「柏原駅」西口のロータリー北側に設置された文化財説明板。

明治期に普及した堅下のぶどう栽培

現在の柏原市におけるぶどうの栽培の歴史は1706(宝永3)年頃に始まるといわれる。1878(明治11)年頃、「生駒山地」最南端の山麓に位置する堅下(かたしも)村平野(現・柏原市)で「甲州ぶどう」の栽培に成功したことをきっかけに普及。大正期にぶどうの需要が増大、1921(大正10)年には出荷組合が設立され他府県にも出荷されるようになり、1928(昭和3)年~1935(昭和10)年には、大阪府が全国1位のぶどう産地となるまでに発展した。写真は昭和初期の堅下村のぶどう園。子どもや和服の女性が写っていることからぶどう狩りの様子と思われる。【画像は1931(昭和6)年頃】

「太平洋戦争」中は食糧難の時代であったが、ワインの醸造で得られる酒石酸が通信機などの原材料として必要であったため、ぶどうの木は伐採を免れ、ワインの醸造量は急増したが、終戦後、軍需がなくなると激減した。写真は1956(昭和31)年頃の様子。ぶどうを搬出するための索道が設置されている。
MAP __【画像は1956(昭和31)年頃】

現在も柏原市周辺ではぶどう栽培が盛んで、大阪府は「農林水産省」の作物統計で全国第7位(令和5年産)の収穫量を誇る。夏から秋にかけて、周辺のぶどう直売所は多くの人で賑わうほか、観光ぶどう狩りを楽しめるぶどう園や大正期創業のワイナリー「カタシモワイナリー」もある。

現在の柏原市太平寺地区は、昔からの路地に古民家・古社古刹など、歴史的な景観が残る地区で、伝統あるぶどう畑や「カタシモワイナリー」といった特産物・産業も活かしたまちづくりが行われている。写真は「カタシモワイナリー」付近の街並み。
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