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信仰の地「生駒山」の変化

現在の大阪府との府県境にある「生駒山」は古くより信仰の地であった。大阪電気軌道(現・近畿日本鉄道)の開通や、「生駒鋼索鉄道」によるケーブルカー開通により、観光地としての開発が進められた。


宝山湛海律師が開いた「生駒聖天 寳山寺」 MAP __

現在の大阪府東大阪市と奈良県生駒市の境にある「生駒山」は標高642m。信仰・修行の山として、役行者(えんのぎょうじゃ)や、弘法大師空海も修行したと伝えられている。1678(延宝6)年、宝山湛海律師が弟子とともに「生駒山」に入り、「大聖無動寺」を建立した。この寺が聖天(大聖歓喜天)を祀る「寳山寺(宝山寺)」として発展し、江戸中期以降には「生駒の聖天さん」として朝廷、将軍家から庶民に至るまで崇敬が篤く、特に大坂(大阪)の商人から信仰されていた。【画像は昭和戦前期】

「宝山寺」は、商売の神様を祀る「日本三大聖天」の一つである。

日本最初の営業用ケーブルカー「生駒鋼索鉄道」 MAP __

日本最初の営業用ケーブルカーとして、生駒鋼索鉄道(生駒ケーブル、現・近鉄生駒鋼索線)が開業したのは1918(大正7)年。この開業により「宝山寺」への参詣が便利になった。当初の鳥居前・宝山寺間の路線に加え、1929(昭和4)年には山上の遊園地開園に合わせて宝山寺・生駒山上間が開業した。写真は鳥居前・宝山寺間の中間地点にあたる踏切より撮影したもの。【画像は昭和戦前期】

近鉄生駒鋼索線沿線はマンションなどが建つ住宅地となり、通勤・通学客も利用する路線となっている。

国内最古の「飛行塔」が健在の「生駒山上遊園地」 MAP __

【画像は昭和戦前期】

「生駒山上遊園地」は1929(昭和4)年に開園した。「大阪電気軌道」により造られた「あやめ池遊園地」に次ぐ沿線開発の直営遊園地であった。展望台を兼ねた高さ30メートルの「飛行塔」は、開園時に設置された。「太平洋戦争」中は、海軍の防空監視所として使用されたため、「金属回収令」を免れた。【画像は昭和戦前期】

「飛行塔」は、国内に現存する大型遊戯機械の中で最も古い。現在は展望台としては利用されていない。


近鉄沿線の観光・住宅地開発

「大軌参急関急電鉄沿線図」の一部

「大軌参急関急電鉄沿線図」の一部【図は昭和戦前期】

「近畿日本鉄道」の前身である「大阪電気軌道(大軌)」により、大阪上本町・近鉄奈良間が開通したのは1914(大正3)年。まずは「大軌」の手で、大阪府内の小阪地区(現・東大阪市)において小規模な土地開発が始まった。その後は1920~30年代にかけて、沿線の各地で本格的な土地、住宅の分譲が始められている。

当時、ほかの私鉄沿線でも乗客確保のために、遊園地や温泉場など観光施設の設置、教育施設の建設、そしてその施設周辺の住宅地開発が行われた。「大軌」も同様に「生駒山」を越えた奈良県内での沿線で、観光施設の開業・学校の誘致・住宅地の分譲を進めた。

生駒地区では、1918(大正7)年に開業した「生駒鋼索鉄道(生駒ケーブル)」が「宝山寺」への参詣者を運び、その後の1929(昭和4)年には「生駒山上遊園地」が開園し、賑わった。目新しかったケーブルカーと遊園地の存在は話題となった。同時期に「生駒駅」前や三勝園地区では住宅地の開発が行われ、1925(大正14)年より分譲が始められた。

大阪市内からは比較的距離のある菖蒲池(あやめいけ)地区でも、1919(大正8)年から「大軌」が土地開発を開始する。1923(大正12)年には「菖蒲池駅」が開業し、1926(大正15)年には駅北側の菖蒲池北園に「あやめ池遊園地」を開園した。さらに1929(昭和4)年には、駅南側の菖蒲池南園に「あやめ池温泉場」が開設されたこともあって、駅の南北それぞれで、開発が進められた。

順調に進行した宅地開発だが、「日中戦争」の影響などで急速にしぼみ、「太平洋戦争」によって中断された。戦後は、菖蒲池地区の開発が再開されるとともに、1942(昭和17)年に駅が設置されていた隣の学園前地区でも、新たな開発が始まることとなる。また当初は観光客や参詣者の利用が多かった生駒ケーブルは、住宅地の開発とともに通勤・通学に使用されるようになった。



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