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「鶴舞公園」と「新堀川」の誕生

名古屋市が初めて設置した公園である「鶴舞公園」は、明治末期の「精進川」の改修と合わせて造成され、「第十回関西府県連合共進会」(以下「共進会」)の会場となった。その後、図書館、公会堂、運動場なども整備され、現在に至るまで名古屋市の文化・スポーツの拠点の一つとして、また市民の憩いの場として親しまれている。改修された「精進川」は「新堀川」へ改称され、両岸では工業や木材業が発展した。


「共進会」が開催された「鶴舞公園」 MAP __

1907(明治40)年に「共進会」の開催地が愛知県に決定。翌年、県はその会場として、名古屋市が整備を進めていた公園用地の無償貸与を受けることとなった。1909(明治42)年、名古屋市が設置する公園としては初となる「鶴舞公園」を告示。名古屋開府300年にあたる翌1910(明治43)年、「共進会」が開催された。写真は会場の賑わう様子で、左の大きい建物が「正門」、中央手前に「噴水塔」、中央奥に見える城郭風の建物は「愛知県売店」。【画像は1910(明治43)年】

90日間の会期中に、当時の名古屋市の人口の6倍以上となる約263万人が訪れた。夜間開場も行われ、建物はイルミネーションで飾られた。【画像は1910(明治43)年】

現在の「鶴舞公園」。「噴水塔」は1973(昭和48)年に地下鉄工事のため一時解体、1983(昭和58)年に当初の姿に復元された。

「精進川」の改修で工業地・公園も誕生 MAP __

蛇行して流れる「精進川」は、江戸時代から明治中期までたびたび改修が計画されていた。1904(明治37)年、「熱田兵器製造所」が造られることとなり、翌年、敷地造成のための土砂と水運の確保を兼ねて「精進川」の改修が着工。敷地造成後、さらに残土が出たため、当時の市域に隣接する御器所村の水田を埋立てて公園とすることになった。1909(明治42)年に公園敷地が市に編入され、「鶴舞公園」が告示された。

1910(明治43)年、延長約5.7kmにわたる「精進川」の改修が竣工し、翌年「新堀川」へ改称。運河として利用できるようになり、大正期には両岸に工場や木材業者の店舗が建ち並んだ。写真は明治後期~大正期の「新堀川」の「堀留」(最上流部)。ボート遊びが行われるなど、行楽地としても賑わっているように見える。【画像は明治後期~大正期】

「堀留」を少し埋立てた場所に「堀留下水処理場」が建設され、1930(昭和5)年に運転が開始された。【画像は1930(昭和5)年頃】

写真は現在の「新堀川」で、「舞鶴橋」から北方面を望む。正面突き当りにある下水処理場は、2008(平成20)年に「堀留水処理センター」へ改称された。MAP __(舞鶴橋)

「鶴舞公園」内に整備された施設

1913(大正2)年、「鶴舞公園」の「竜ヶ池」西畔の「共進会」で展示に利用された建物に、「名古屋市教育会」が「私立名古屋図書館」を開設。1923(大正12)年、「大正天皇御大典奉祝記念事業」として、現在地に「市立名古屋図書館」(写真)が開館、「私立名古屋図書館」は役割を終え、蔵書は全て寄贈された。MAP __(私立名古屋図書館跡) 【画像は昭和戦前期】

「市立名古屋図書館」の建物は1945(昭和20)年、戦災により焼失。1952(昭和27)年、「名古屋市鶴舞図書館」として再建され、1964(昭和39)年に「名古屋市鶴舞中央図書館」に改称。1984(昭和59)年に建物を新築し現在に至っている。MAP __

「名古屋市公会堂」(写真右奥)は昭和天皇のご成婚を祝し、市の記念事業として1930(昭和5)年に開館。「太平洋戦争」中は防空部隊の司令部が置かれた。終戦後接収され、米国空軍の娯楽・厚生施設となった。【画像は昭和戦前期】

「名古屋市公会堂」は1956(昭和31)年に名古屋市の管理に戻り、施設の整備拡充が行われ、再び市民の利用施設として親しまれるようになった。写真左は「噴水塔」。MAP __(名古屋市公会堂)


「つるま」と「つるまい」

駅名は「つるまい」。

駅名は「つるまい」。

「鶴舞公園」の「鶴舞」の正式な読みは「つるま」となっているが、駅名は「つるまい」。公共施設名は「つるま」、住所は「つるまい」など読み方は混在しており、地元では正しく使い分ける人もいれば、「つるまい」で通す人、「つるみゃあ」とする人などさまざま。「鶴舞公園」については、1909(明治42)年の名古屋市による告示の際、わざわざ「ツルマ」とカタカナで読みを付けており、命名者の「ツルマイ」ではないという意志も感じさせる。

まず、読みについて「鶴舞公園」告示前の史料を紐解いてみよう。江戸後期に出版された『尾張名陽図会 巻六』には『鶴舞(つるまひ)池の旧跡、又の名を鶴萬(つるま)池』と読みが入れられている。「鶴舞池」は、のちの中区池田町、現在の中区栄四・五丁目付近にあった大池で、江戸中期に埋立てられたという。また、江戸後期の出版といわれる『金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)』の前津小林村(現在の上前津周辺)の項には、『田ン所のあざ名につるまと唱ふ所あり』との記述もある。『明治十五年愛知県郡町村字名調』には、愛知郡常盤村(後に前津小林村と合併し御器所村となる)の項に「東鶴舞(ヒガシツルマイ)」「西鶴舞(ニシツルマイ)」の字名と読みが見られる。これらのことから、「つるま」「つるまい」の表記のゆれは、江戸後期~明治初期には既にあったことがわかる。MAP __(鶴舞池の旧跡)

次に「鶴舞」の地名の由来について。前出の『金鱗九十九之塵』前津小林村の項では、かつてこの地が海辺で鶴が多かったため、「舞鶴」から「まへ津」「ツルマ」という地名になったと記されている(「前津」については、かつての入海の港で「まへ(前)の津」という説もある)。「舞鶴」の名は、現在も「新堀川」に架かる橋名「舞鶴橋」に残されている。また、地形的に見ると、一帯は「矢田川」の旧流路といわれる「精進川低地」に位置する水が豊かな地であることから、水の流れる場所を意味する「水流間(ツルマ)」という言葉に、「鶴舞」という漢字を当てたという説もある。1916(大正5)年出版の『名古屋市史 地理編』では『鶴舞の名、初めはツルマと仮名にて書せしを、後に漢字を当てたるものにして、真の意義は詳ならず』とし、由来を明確にしていない。

「鶴舞」の読み方は、長年にわたって住民や訪れる人々の疑問であり、近年も新説の提言や論争があり話題となっている。



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