「共進会」開催当時の「貴賓館」。
【画像は1910(明治43)年】
「鶴舞スタデイアム」があった「吉田山」の名称は、初代名古屋区長・吉田禄在氏の別荘地があったことに由来する。1910(明治43)年の「第十回関西府県連合共進会」(以下「共進会」)に際し、吉田氏が名古屋市に寄付したことを記念し命名された。市はここに「金閣」を模した「紀念館」を建設、「共進会」において「貴賓館」として使用され、当時の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)をはじめ、国内外の賓客をもてなした。「共進会」終了後、「九皐閣(きゅうこうかく)」と命名され、のちに「聞天閣(ぶんてんかく)」へ改称。中国最古の詩集「詩経」の『鶴九皐に鳴き声天に聞こゆ』(鶴は深い谷底で啼いてもその声は天に届く。賢人は身を隠しても名声は広く知れ渡るという例え)から引用し、当時の市長が命名したという。命名・改称の時期は明らかではないが、1916(大正5)年発行の『名古屋市史』には「聞天閣」の名称が見られる。1928(昭和3)年の「御大典奉祝名古屋博覧会」でも「貴賓館」として使用された。
飛び火で屋根など一部を焼失した「聞天閣」。
【画像は1940(昭和15)年】
戦時体制下の1940(昭和15)年、前年公布の「防空建築規則」を受けて、「木造家屋火災実験」が「鶴舞公園」の運動場で行われた。木造家屋の防火改修の効果を比較するため、改修家屋と普通家屋、計6棟を設置し同時に点火、延焼について実験した。市民へ規則を周知し防火への関心を高めることを目的とし、当日は8万人もの観衆が集まったと記録されている。この実験の際、運動場の東に位置していた「聞天閣」に飛び火、屋根の一部を焼失した。建設当初の屋根は銅板葺きであったが、1926(大正15)年に檜皮葺きへ変更していた。実験による被災後、「聞天閣」の修理はすぐに開始され、同年中に復旧している。
1942(昭和17)年、「吉田山」を高射砲陣地とするため、「吉田山」にあった全ての建物が除去されることになり、「聞天閣」は移築のため解体された。移築先の予定地は「東山公園」だったといわれ、翌年、跡地に高射砲陣地が置かれた。解体された「聞天閣」の木材は「名古屋市公会堂」付近の広場に保管されていたが、1945(昭和20)年の空襲により焼失。しかし、屋根上にあった青銅製の鳳凰をはじめ、建具や金具の一部は「名古屋城」で保管され、さらに戦災も免れたため現存しているという。