このまちアーカイブス INDEX

「東郊耕地整理」に見る地域の都市化

現在の昭和区・瑞穂区において、1912(大正元)年に始まった「東郊耕地整理」。当初は効率的な農地の整備を目的としていたが、都市の拡大を受け目的を住宅地の整備へ変更、名古屋市郊外の住宅地開発の先駆けとなった。また、明治末期に整備された「郡道(千種街道)」は、沿道への主要施設の設置や商業の集積、バスの運行などもあり、賑わう通りとして発展した。



農地から住宅地の整備に目的を変更した「東郊耕地整理」

「広見ヶ池」の埋立て工事中の様子

1927(昭和2)年頃の「広見ヶ池」の埋立て工事中の様子。
【画像は1927(昭和2)年頃】MAP __

「名古屋市立向陽高等学校」

市に譲渡された土地には1928(昭和3)年に「名古屋市立名古屋商業学校」が移転してきた。戦後に「名古屋市立向陽高等学校」となり現在に至っている。住所の広池町は、かつて「広見ヶ池」があったことの名残。

明治後期に「耕地整理法」が施行され、現在の昭和区・瑞穂区内では、1912(大正元)年に「東郊耕地整理組合」が設立された。設立当初、溜池(「天池」など)は整理区域から除外されていたが、灌漑(かんがい)の改良の必要性から編入され、さらに少し離れた所にあった「広見ヶ池」も編入された。第1期工事(1913(大正2)年~1917(大正6)年)では、農地と周辺の道路の整備、溜池の改修などが行われた。

1920(大正9)年に「都市計画法」が施行され、翌年「東郊耕地整理」の区域も含まれる近隣16町村が名古屋市へ編入。名古屋市の一部となったこの地域にも住宅の建設や工場の進出が多くなり、第2期工事(1921(大正10)年~1923(大正12)年)では、農地から住宅地の整備へ目的が変更された。

1922(大正11)年、組合は住宅地としては不要で、浸水の害ともなる溜池の埋立てを申請。当初、名古屋市は「広見ヶ池」の埋立てを認めなかったが、県知事の裁定により埋立地のうち8千坪を市に無償譲渡することで決着。「広見ヶ池」などの溜池の埋立てや排水路の工事は第3期工事として1926(大正15)年に着工、翌1927(昭和2)年に竣工した。この後、補全工事(追加工事)として道路の整備などを行い、1934(昭和9)年に組合は解散した。この事業は、戦前の名古屋市内で盛んに行われる耕地整理・土地区画整理による住宅地開発の原点となった。

「東郊耕地整理」で誕生した住宅地

「東郊耕地整理」が全て完了した1934(昭和9)年頃の豆田町四丁目より北方面を望む街路の様子。
MAP __【画像は1934(昭和9)年頃】

現在の瑞穂区豆田町四丁目付近。道幅は当時から変わっていないように見える。

市電「滝子停留場」付近から北方面を望む。手前の「東郊耕地整理」で整備された太い道路は、現在は「八熊(やぐま)通」と呼ばれている。奥に洋館が数軒見える。【画像は1934(昭和9)年頃】

このあたりでは、現在も当時からの洋館を見ることができる。バスの通る道が、かつて市電が通っていた「八熊通」。
MAP __

写真は「尾陽神社」の境内から北側を望む。中央奥の大きな建物は「天理教 愛知教務支庁」で、そのさらに先が「鶴舞公園」となる。【画像は1934(昭和9)年頃】

「尾陽神社」付近から北側を望む。写真では建物の陰となり確認できないが、現在も「天理教 愛知教務支庁」は同じ場所にある。「天理教 愛知教務支庁」の手前の道路は戦後に拡幅され、現在は「山王通り」と呼ばれている。
MAP __

地図で見る「東郊耕地整理」と「郡道」

地図は「東郊耕地整理」の範囲などを追記した1933(昭和8)年発行の地形図。「東郊耕地整理」は概ね「新堀川」「鶴舞公園」「郡道」「平針街道」で囲まれた区域であったこと、「広見ヶ池」は少し離れた場所であったことなどがわかる。

郡道とは、明治・大正期に郡役所が定めた道路のことで、郡制が廃止となる1923(大正12)年当時、愛知郡には49路線あった。中でも、「東海道」から御器所を通り千種へ向かう「千種街道」は、1909(明治42)年に改修が完了した重要な道で、一般に「郡道」はこの道を指すようになった。「郡道」沿いには「愛知郡役所」「第八高等学校」といった主要施設も置かれた。

現在も「千種街道」は「郡道」の愛称で呼ばれる。昭和初期には「郡道バス」と呼ばれる路線バスも通るようになり、沿道は商業地としても発展した。写真は昭和区北山本町二丁目付近。
MAP __

写真は「滝子商店街」の様子。かつては「第八高等学校」、現在は「名古屋市立大学 経済学部」が商店街に隣接してあり、学生の街としても発展している。
MAP __

「広見ヶ池」の西岸に移転してきた「愛知郡役所」 MAP __

「愛知郡役所」は「郡区町村編制法」施行の1878(明治11)年より熱田に置かれていたが、1917(大正6)年、「熱田神宮苑拡張計画」に伴い移転することに。郡内の各地が誘致へ動く中、「広見ヶ池」の一部を埋立て、無償で土地を提供する提案により、御器所村が誘致に成功。「広見ヶ池」は当時「東郊耕地整理」の区域内であり、組合は設計を変更して池の西岸の一部を埋立て、1918(大正7)年、郡役所はこの地へ移転した。【画像は1923(大正12)年頃】

しかし、1923(大正12)年に郡制は廃止、郡役所は1926(大正15)年をもって役目を終えた。建物は1932(昭和7)年に改築され「御器所警察署」となり、1942(昭和17)年まで置かれた。現在は「名古屋自由学院 滝子幼稚園」になっており、その一角に、かつてこの地に郡役所があったことを記す碑が建てられている。


次のページ 住宅地と商業・交通


MAP

この地図を大きく表示



トップへ戻る