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開府までの名古屋


「草薙神剣」を祀る「熱田神宮」 MAP __

113(景行天皇43)年の創祀と伝わる「熱田神宮」の主祭神は「熱田大神」で、「スサノオ(素戔嗚尊)」や「ヤマトタケル(日本武尊)」ゆかりの「三種の神器」のひとつ「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」を祀る神社として知られている。お膝元の熱田町は1907(明治40)年、名古屋市の一部となった。【画像は大正期】

都会の中にありながら、「熱田神宮」には深い緑の森があり、荘厳な雰囲気が漂う。

金の鯱で有名な尾張徳川家の居城「名古屋城」 MAP __

江戸時代には、『尾張名古屋は城でもつ』と、『伊勢音頭』に歌われた尾張徳川家の居城。「大坂城」「熊本城」とともに天下の三名城と呼ばれた。「明治維新」後は「名古屋鎮台」が置かれ、その後は陸軍の「第三師団」の本部があった。1873(明治6)年、「廃城令」が発せられ全国で多くの城郭が破却されることになるが、「名古屋城」は陸軍の上申により、1879(明治12)年に保存が決定となった。写真は昭和戦前期、東側からの空撮。【画像は昭和前期】

「名古屋城」は明治期以降も名古屋のシンボルとなっていたが、1945(昭和20)年の「名古屋大空襲」で焼失。戦後、天守の再建の要望が高まり、1959(昭和34)年に鉄筋コンクリート造で再建された。天守の内部は展示施設となっていたが、耐震性の問題から2018(平成30)年に公開を終了。現在は、現・天守を解体の上、木造での復元が検討されている。

碁盤割の城下町の守護神「朝日神社」 MAP __

「清洲越し」とは、江戸時代初期の「名古屋城」築城に際して行われた「清洲(城)」から名古屋への都市の移転のこと。これにより、碁盤割の城下町が出来上がった。「朝日神社」もこの「清洲越し」で、「清洲城下」の朝日郷から現在の錦三丁目に遷座した。【画像は明治後期】

「朝日神社」周辺は栄の中心地として発展したため、現在、社殿はビルに囲まれている。

門前町が発達した「大須観音」 MAP __

「大須観音」は慶長年間、徳川家康により美濃国(現・岐阜県)の大須から移された。周辺は門前町として発展、大正時代になると「大須商店街」が誕生し、繁華街としてさらに賑わうようになった。写真は明治後期の門前の様子で、奥に「大須観音」の「仁王門」が見える。当時の「仁王門」や「大須観音」の本堂は東向きに建っていた。【画像は明治後期】

現在も「大須観音」周辺は繁華街として賑わっている。戦災で焼失した「大須観音」の本堂は1970(昭和45)年に再建された。写真は同地点から撮影した「大須仁王門通商店街」の様子で、中には明治期から営業を続ける老舗も残る。


名古屋の誇り、全国を統一に導いた「三英傑」

名古屋周辺は、戦国の戦乱から天下統一へ導いた3人の武将、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のゆかりの地。

天下統一を目指した織田信長は尾張国(現・愛知県西部)に生まれ、2歳にして「那古野城」(「名古屋城」の前身にあたる)の城主となっている。天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は現在の名古屋市中村区「中村公園」付近が生誕の地で、1885(明治18)年には秀吉を祀る「豊国神社」も創建されている。徳川家康は三河国(現・愛知県東部)の生まれで、天下統一・江戸開府の最後の布石として「名古屋城」を築城している。地元の人々はこの3人の武将を、顕彰する意味を込めて「三英傑」と呼んでいる。

名古屋は京都・大阪と東京の中間にあたり、陸路及び海路の発達から文化・情報の集まる地であり、軍事的にも重要な地域であった。この地理的な関係が「三英傑」を育て上げた背景にあるのかもしれない。

1955(昭和30)年に始まった「名古屋まつり」では、「三英傑」を中心とする豪華絢爛な「郷土英傑行列」が行われている。2009(平成21)年には観光PRを目的とする「名古屋おもてなし武将隊」が結成、2013(平成25)年には「円頓寺商店街」、「円頓寺本町商店街」に「三英傑」の像が設置されるなど、今なお、「三英傑」は郷土の誇りであることが感じられる。

織田信長像

織田信長像 MAP __

豊臣秀吉像

豊臣秀吉像 MAP __

徳川家康像

徳川家康像 MAP __



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※企画制作協力 / 長坂英生(名古屋タイムズ・アーカイブス委員会)



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