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日本最初の公園の一つ「上野公園」

1873(明治6)年、「上野の山」には日本最初の公園の一つである「上野公園」が誕生した。明治期から昭和戦前期にかけて、殖産興業などの目的で開催される博覧会の会場となり、多くの人を集めるとともに、最新の製品や情報を発信した。また、明治期に常設の博物館、図書館、動物園、音楽学校、美術学校などが設けられ、西洋レストランもオープンするなど、文化・芸術の中心地としても発展した。


多くの博覧会の会場となった「上野公園」

「上野公園」では、1877(明治10)年の第一回をはじめ、合計3回の「内国勧業博覧会」が開催された。「内国勧業博覧会」は、「明治維新」後の殖産興業策の一つで、政府主催で行われた。また、1907(明治40)年には東京府主催の「東京勧業博覧会」が開催された。当時「東京勧業協会」の会頭だった大鳥圭介らの建議によるものであった。「東京勧業博覧会」では、ウォーターシュート・観覧車が設置されたほか、イルミネーションも実施され人気となった。

写真は「上野精養軒」の庭園より西方向、「東京勧業博覧会」の「第二会場」を望む。一部に足場が組まれているので、完成直前の様子と思われる。「第一会場」は「上野の山」、「第二会場」は「不忍池畔」に設けられていた。中央が「第二会場正門」で、その左が「台湾館」、その奥、池越しに見えるのが「機械館」。中央奥に「三菱」のマークを付けた「三菱館」があり、右奥の大きい建物が「外国館」。正門の右には歯磨粉の「ライオン館」が見え、手前には売店が立ち並ぶ。この会場の様子は、夏目漱石の小説『虞美人草』の主人公・宗近らの会話の中にも描かれている。
MAP __(第二会場跡地)【画像は1907(明治40)年】

「上野精養軒」から「不忍池」を望む。「上野公園」は都内有数の桜の名所としても知られる。【画像は2015(平成27)年頃】

「東京勧業博覧会」の「外国館」は、明治中期に開催されていた「不忍池競馬」の馬見所跡に建設された。閉会後、「東京勧業協会」が常設の「商品陳列所」として使用することを条件に、「東京勧業協会」の寄付で建設された。写真は「東京勧業博覧会」の閉会後、「商品陳列所」となった頃の様子。
MAP __(商品陳列所跡地)【画像は明治後期】

「不忍池」から北方面を望む。過去の写真にも写る「天龍橋」は「不忍池辯天堂」の参道に架かる石橋。かつて「外国館」「商品陳列所」があった場所は、現在は「恩賜上野動物園」の「西園」内となる。
MAP __(天龍橋)

1876(明治9)年に開業した「上野精養軒」 MAP __

1876(明治9)年、当時築地にあった「築地精養軒」の支店として、「上野公園」内に「上野精養軒」がオープンした。日本の西洋料理の草分けでもあるこのレストランは、夏目漱石の『三四郎』や『行人』にも登場する。【画像は明治中期】

レストランだけではなく、結婚式の披露宴やパーティー会場としての利用者も多い「上野精養軒本店」。「上野公園」内の博物館などでも支店(レストラン)の営業を行っている。

明治期からの歴史を伝える「東京国立博物館」 MAP __

明治期に入り「上野公園」が開園すると、公園内に博物館の建設が検討されるようになった。1881(明治14)年、「寛永寺」の「本坊」跡地に、ジョサイア・コンドル設計の建物(以下「旧本館」と表記)が完成、「第二回内国勧業博覧会」の美術館として使用され、翌年「博物館(上野博物館)」として開館した。1886(明治19)年に「宮内省」へ移管され、1889(明治22)年に「帝国博物館」、1900(明治33)年に「東京帝室博物館」へ改称。同年の皇太子殿下(のちの大正天皇)御成婚奉祝のため、美術館が計画され、1909(明治42)年に「表慶館」(設計は片山東熊)として開館した。

写真は明治後期の「東京帝室博物館」。手前は「上野戦争」で焼失を免れた「寛永寺」の「旧本坊表門」で、奥の建物が「旧本館」。【画像は明治後期】

「旧本館」は「関東大震災」で被災し解体された。震災復興後の「本館」(写真奥の建物)は渡辺仁の設計(原案)で1937(昭和12)年に完成、現在は重要文化財に指定されている。「東京帝室博物館」は1947(昭和22)年、「文部省」に移管され「国立博物館」へ改称、1952(昭和27)年に現在の名称「東京国立博物館」となった。

「寛永寺」の「旧本坊表門」は「東京帝室博物館 本館」の改築に伴い、1937(昭和12)年に現在地(現「輪王殿」の前)へ移築された。1946(昭和21)年、「寛永寺旧本坊表門(黒門)」として重要文化財(旧国宝)に指定されている。
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日本で最初の動物園「上野動物園」 MAP __

現在の「恩賜上野動物園」は、1882(明治15)年、「博物館」(現「東京国立博物館」)の付属施設の「動物園」として開園した、日本で最初の動物園。一般には「上野動物園」と呼ばれた。当時は日本の動物が主体で、その後、海外のトラやラクダなどが加わった。「宮内省」所管を経て、1924(大正13)年、皇太子殿下(のちの昭和天皇)御成婚を記念し「上野公園」とともに東京市へ下賜され「上野恩賜公園動物園」となった。【画像は明治後期】

戦後の1947(昭和22)年、現在の「恩賜上野動物園」へ改称。1972(昭和47)年には日中国交回復を記念し、ジャイアントパンダの「カンカン」と「ランラン」が来園、話題となった。現在は4頭のジャイアントパンダをはじめとする約300種3,000点の動物を飼育している。

1890(明治23)年、「上野公園」に開校した「東京音楽学校」

「東京音楽学校」は1890(明治23)年、「上野公園」の一画に開校した日本最初の音楽学校。音楽ホール「奏楽堂」を擁する校舎もこの時に建設された。以降、音楽家や音楽教育者を養成し、日本の近代音楽の発展に貢献した。1949(昭和24)年、新制の「東京藝術大学」が発足となり、「東京音楽学校」と隣接する「東京美術学校」は統合され、それぞれ「音楽学部」と「美術学部」に発展した。
MAP __【画像は明治後期】

「東京音楽学校」の「奏楽堂」は日本で最初の洋式音楽ホールであった。1983(昭和58)年に台東区へ譲渡され、1987(昭和62)年に「上野公園」内の現在地へ移築・復元が完了、「旧東京音楽学校奏楽堂」として公開・利用が開始となり、翌年、重要文化財に指定された。現在、建物の公開が行われているほか、音楽ホールとしても活用されている。
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博覧会から受け継がれる『文化の杜』 MAP __

「東京大正博覧会」のロープウェイ

「東京大正博覧会」の際、「不忍池」に架けられたロープウェイ。
【画像は1914(大正3)年】
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『文化の杜』『文化の森』は「上野公園」を表す言葉として、昭和30年代頃から出版物などで使われるようになったといわれる。「上野の山」は江戸時代の頃も文化的な地であったが、明治期以降に東京を代表する文化の中心地となった理由の一つとして「上野公園」で開催されてきた多くの博覧会の存在が挙げられる。

「上野公園」では、1877(明治10)年開催の「第一回内国勧業博覧会」を皮切りに昭和期まで数多くの博覧会が開かれた。代表的なものとしては、1881(明治14)年の「第二回内国勧業博覧会」、1907(明治40)年の「東京勧業博覧会」、1914(大正3)年の「東京大正博覧会」、1922(大正11)年の「平和記念東京博覧会」、1928(昭和3)年の「大礼記念国産振興東京博覧会」、1930(昭和5)年の「海と空の博覧会」などがある。博覧会の名称には、「勧業」「平和記念」「国産振興」「海と空」など、当時の世相を表すキーワードが用いられている。

こうした博覧会は、国産品の品質・生産技術の向上、国内外の最新の産業や文化の紹介などを目的としていたため、情報・文化の発信地としても機能した。また、水族館、電車、ウォーターシュート、観覧車、ロープウェイ、エスカレーターなど、国内初、あるいは国内最初期の施設や乗り物も用意され話題となり、機械やレジャーなどの産業の発展にも貢献した。

博覧会ではその都度、仮設の建築物(パビリオン)が造られたが、「第二回内国勧業博覧会」の時の「博物館(上野博物館)」のように開館前の建物を展示施設として使用した例、「東京勧業博覧会」の「外国館」のように博覧会を契機に本格的な建物が建設された例もあった。また、博覧会で使用した仮設の建築物や遊具を、ほかの遊園地などに移築・移設し使用した例もあったという。

「上野公園」には、このページの写真で紹介した以外にも、1889(明治22)年に「東京美術学校(現・東京藝術大学 美術学部)」、1926(大正15)年に「東京府(現・都)美術館」、1931(昭和6)年に「東京(現・国立)科学博物館」、1961(昭和36)年に「東京文化会館」などが誕生している。こうした多くの文化的な施設の集積により『文化の杜』が形成されている。


日本で最初に開業したモノレール MAP __

「上野動物園」内には1957(昭和32)年、東京都交通局上野懸垂線(「上野動物園モノレール」)が開業した。日本で最初に開業したモノレールで、動物園の遊技施設ではなく、正式な鉄道として、「東京都交通局」が運営していた。写真は1967(昭和42)年に運行を開始した2代目の車両。この頃、日本では、渋滞の影響を受ける路面電車や路線バスに代わる都市内交通手段として、モノレールが注目されており、「上野動物園モノレール」をはじめ、実験的な路線が続々と建設された。【画像は1967(昭和42)年】

「上野動物園モノレール」は、車両の経年劣化から、2019(令和元)年10月31日をもって運行を休止、2023(令和5)年12月に正式に廃止となった。写真は運行最終日の様子。【画像は2019(令和元)年】


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