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進む商業地化・都市化

明治末期から大正期にかけて、「西武軌道」(のちの都電杉並線)や西武村山線(現・西武新宿線)の開通や、国鉄(現・JR)中央線の電車運転開始、「高円寺駅」をはじめとする新駅開設など、交通利便性が向上。徐々に住宅地化が進み人口が増えると、駅前などで商業が発展。また、水道・病院など、インフラや生活施設も整備・開設されるようになり、都市化が進んだ。特に「関東大震災」以降、「武蔵野台地」上に移住する人が増えると都市化が加速。こうした中、東京市は1932(昭和7)年に隣接郡部を合併し、いわゆる「大東京市」が誕生。市内の区は、15区から35区となり、このとき中野区・杉並区も誕生した。


1916(大正5)年、和田堀内村に「救世軍杉並療養所」開設 MAP __

仲御徒町にあった「救世軍病院」(1912(明治45)年設立)は、1916(大正5)年、和田堀内村(現・杉並区和田)に一般市民を対象にした結核療養所「救世軍杉並療養所」を開設した。当時結核は『国民病』と呼ばれるほど猛威を振るっていた。当初、50床だった施設は、1934(昭和9)年に日本初の外気舎、コロニー舎を設け、外気療法、作業療法といった結核医療の新機軸を生み出し、260床の規模となった。【画像は昭和前期】

時代の変化とともに結核患者は減少、地域の医療ニーズに対応し、1968(昭和43)年、「救世軍」創立者のウィリアム・ブース氏を記念する「救世軍ブース記念病院」と改称し、一般病院に転じている。「救世軍」は軍隊式の組織編成により伝道・社会福祉・教育などを行うキリスト教プロテスタントの一派で、日本には1895(明治28)年に伝来した。

「西武軌道」は都電杉並線へ

1921(大正10)年、「西武軌道」(現・西武鉄道)は荻窪~淀橋間の「青梅街道」上に軌道(路面電車)を開業した。その直後、「武蔵水電」に吸収合併されるなどを経て、1942(昭和17)年に「東京市電気局」に経営を委託、東京市電(翌年、都制により東京都電)の一部として、杉並線と呼ばれるようになった。戦後の1951(昭和26)年には、正式に東京都に譲渡されている。写真は「青梅街道」の「淀橋」付近を走る西武新宿軌道線。【画像は1933(昭和8)年】

「青梅街道」の地下には、1961(昭和36)年に営団地下鉄荻窪線(現・東京メトロ丸ノ内線の一部)が新宿~新中野間で開通し、翌年に荻窪まで全通した。これにより都電杉並線は利用客が減少し、1963(昭和38)年に廃止された。
MAP __(淀橋付近)

「荒玉水道」と「野方配水塔」の建設 MAP __

東京周辺の都市化・人口の増加は、大正中期頃より進み、特に1923(大正12)年「関東大震災」後、拍車がかかり、水道の整備も急務となった。当時の東京市の北西にあった豊多摩郡・北豊島郡に属する町村のうち、中野町・野方町(現・中野区)、杉並町・和田堀町(現・杉並区の一部)など13町は、1925(大正14)年に「荒玉水道町村組合」を設立、翌年、敷設工事が着工となった。「荒玉水道」は「多摩川」の伏流水を砧(現・世田谷区)で取水・浄水の上、送水した。

「野方配水塔」は、「荒玉水道」の配水施設として当時の野方町に建設され、1929(昭和4)年に竣工した。1932(昭和7)年、北豊島郡・豊多摩郡が東京市へ編入されたことに伴い、「荒玉水道町村組合」は「東京市水道局」へ併合された。写真は1938(昭和13)年の撮影。【画像は1938(昭和13)年】

「野方配水塔」は、高さ33.6m、基部の直径は約18mの鉄筋コンクリート造りで、1966(昭和41)年まで使用された。その後、解体計画もあったが、災害用給水槽として2005(平成17)年まで使用され、2010(平成22)年に「旧野方配水塔」として国の登録有形文化財となった。地域のランドマークとして親しまれており、周辺には名称が配水塔に由来する「みずのとう公園」「やはたみずのとう幼稚園」もある。

中野で誕生した「丸井」 MAP __

1931(昭和6)年、月賦販売商の「丸二商会」に勤めていた青井忠治氏が独立し、中野区桃園町(現在の「中野マルイ」の西側)に開店。1935(昭和10)年に商号を「丸井」とし、1936(昭和11)年、現在の「中野マルイ」の場所に「丸井」を開店した。「太平洋戦争」中、店舗は閉鎖となったが、1947(昭和22)年に再開、以降、中央線沿線などに多店舗展開した。

「丸井 中野本店」では、1970(昭和45)年に南に隣接して「B館」が開設され、1972(昭和47)年、旧「中野本店」も建て替えられた。写真は、建て替え中の様子で、左奥で「B館」が営業している。同年、「A館」がオープンし、「中野本店」は2館体制となり「中野ショッピングビル」と呼ばれた。【画像は1972(昭和47)年】

「丸井 中野本店」は建物の老朽化などから2007(平成19)年に閉店した。「A館」跡地には、2011(平成23)年に店舗とオフィスの複合ビルが完成し「中野マルイ」が開店した。当初、新ビルには「丸井」としては出店しない方針であったが、地元住民らの要望もあり、再出店することになった。「B館」跡地には2012(平成24)年に超高層マンション「中野ツインマークタワー」が完成している。
MAP __(中野ツインマークタワー)


中野・高円寺一帯の商業地としての発展

大正期の「仲通り」沿いの商店

大正期の「中野駅」の北口、「仲通り」沿いの商店。【画像は大正期】

現在の中野・高円寺一帯は、明治期までは「青梅街道」の沿道や「妙法寺」「新井薬師」などの寺社周辺を除けば、人家の少ない場所であったが、1889(明治22)年に「甲武鉄道」が開通、この地域が発展する基礎が築かれた。大正期に入る頃から人口が増え始め、特に1923(大正12)年の「関東大震災」以降、「武蔵野台地」上の地盤の良さと、交通利便性が高い街として、都心部から移住する人が急増、駅周辺の市街地化が急速に進んだ。

現在の「中野サンモール商店街」

現在の「中野サンモール商店街」。

「太平洋戦争」の終戦直後、「中野駅」の南北には100軒以上からなるヤミ市が立ったといわれる。北口の「仲通り」周辺にあった商店は、1948(昭和23)年、「東京都美観商店街制度」により「中野北口美観商店街」となった。1958(昭和33)年にアーケードがかけられ、1966(昭和41)年には、アーケードの突きあたりに「中野ブロードウェイ」が開業。当時の日本では珍しいショッピングセンターと住居を兼ね備えた複合施設であった。「中野北口美観商店街」は、1975(昭和50)年のアーケード改装の際、「サンモール」が愛称となり、現在は組合名も「中野サンモール商店街振興組合」となっている。
MAP __(中野サンモール)

1935(昭和10)年の「高円寺商店街」

1935(昭和10)年の「高円寺商店街」。【画像は1935(昭和10)年】

「高円寺駅」は、1922(大正11)年、それまで途中駅のなかった国鉄(現・JR)中央線の中野~荻窪間に開設された。駅の開設により、周辺は住宅地化が進み、駅前は商業地として発展した。写真は1935(昭和10)年、「高円寺駅」南側の「高円寺商店街」(現「高円寺パル商店街」の一部)の様子。当時の「高円寺商店街」は駅を挟んで南北に延び、早くも賑わう商店街として発展していた。資料によると、店舗数は135店、うち衣料品が48店、食料品が37店、飲食は13店となっていた。

「高円寺阿波おどり」

現在、「高円寺阿波おどり」は地元の商店街や町会が主体となって設立されたNPO法人「東京高円寺阿波おどり振興協会」の主催で、毎年8月に行われている。

現在、「高円寺駅」の駅周辺には多くの商店街がある。北口側には、小説『高円寺純情商店街』の舞台になった「高円寺銀座商店街」や「高円寺庚申通り商店街」などがある。南口側には「高円寺パル商店街」と「高円寺ルック商店街」の2つの商店街が繋がる形で約800mにわたり延びており、南端まで行けば東京メトロ丸ノ内線の「新高円寺駅」がある。写真の「高円寺阿波おどり」は、「高円寺パル商店街」の前身「高南商盛会」の青年部が、1957(昭和32)年に街おこしとして始めたもので、現在では高円寺の夏の風物詩となっている。
MAP __(高円寺パル商店街)


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