図は江戸末期の1834(天保5)年頃、長谷川雪旦が描いた『江戸名所図会 堺町葺屋町戯場(しばい)』。
江戸初期、「中橋」の南(現・京橋一丁目付近)には人形浄瑠璃などの芝居小屋が立ち並び、1624(寛永元)年には、京都から江戸に移った猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が、歌舞伎の「猿若座」を創設した。しかし、これらの芝居小屋は「江戸城」から近いことを理由に現在の人形町付近への移転を命じられた。「猿若座」は1632(寛永9)年に禰宜町(現・日本橋堀留町一丁目付近)へ、さらに1651(慶安4)年に下堺町(現・日本橋人形町三丁目付近)へ移転、この時「中村座」へ改称した。
MAP __(中村座跡地)
1634(寛永11)年には日本橋葺屋(ふきや)町(現・日本橋人形町三丁目付近)に「村山座」が開業、1667(寛文7)年頃に「市村座」となった。
MAP __(市村座跡地)
その後、「中村座」「市村座」は、木挽町(現・銀座六丁目)の「森田座」と併せ歌舞伎の『江戸三座』として人気を誇った。一帯には大小多くの芝居小屋が立地し、大名から町民までが楽しむ娯楽の地として発展、周辺には茶屋も集まり大いに賑わうようになった。
図は江戸末期の1834(天保5)年頃、長谷川雪旦が描いた『江戸名所図会 堺町葺屋町戯場(しばい)』。右上に「中村座」、その左下に「市村座」が描かれている。左下の橋は「堀江町入堀」に架かる「親父橋」。橋名の由来は「吉原」の開業の際、「日本橋」方面からの通路として、「親父」と呼ばれていた遊郭惣名主の庄司甚右衛門が架橋したため。右下には花街として発展した「よし町」の地名も見える。
しかし、江戸末期の1841(天保12)年、「中村座」は火災を起こし「市村座」とともに焼失、また、「天保の改革」により、すべての芝居小屋と関係者は浅草聖天町(のちの浅草猿若町、現・台東区浅草六丁目)への移転を命じられ、200年以上続いた人形町の芝居の街としての歴史は終焉を迎えた。
人形町の地名は、江戸期以来の通称であったが、1933(昭和8)年、正式に町名が「人形町」となった。地名の由来は、人形浄瑠璃や人形芝居に関する職人(製作、修理、人形師など)や人形商が多く暮らしていたことによる。ちなみに、「人形焼」は、1907(明治40)年創業の和菓子店「板倉屋」が人形町の名物として、人形を形をした菓子を開発したことに始まっている。