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日本橋の文化と娯楽

江戸時代の江戸は、世界最大の都市だったといわれる。その中心となる日本橋は、多様な文化や娯楽が集積し、町民から大名まで、幅広い層の人が楽しめる街として発展していった。


1,000年以上の歴史を持つ「福徳神社」

「福徳稲荷」は創祀された年代は不詳ながら、平安初期の貞観年間(859年~876年)には既に鎮座し、その後、源義家や太田道灌などの武将からの崇敬も受けたといわれる。「江戸開府」以前、このあたりは福徳村と呼ばれ、農地や森林が広がり、農家が散在する農村であった。「福徳稲荷」は福徳村の鎮守で、周辺には「稲荷の森」と呼ばれる森も広がっていた。徳川家康は江戸入府以降、数度参詣しており、二代将軍・秀忠は、別名として「芽吹(めぶき)稲荷」と命名するなど、将軍家からも崇敬されたが、「日本橋」の架橋以降、室町周辺が商業地として発展するにつれ、規模の縮小や遷座が繰り返された。明治期に入り神仏分離され、1876(明治9)年に現在の「福徳神社」へ改称した。写真は1923(大正12)年頃の様子。この年に「関東大震災」が発生、そののちに行われた震災復興の土地区画整理の際にも遷座している。
MAP __(江戸末期の場所)【画像は1923(大正12)年頃】

「福徳神社」は、近年は現在地付近のビルの屋上やビル内の小祠に祀られてきたが、「三井不動産」を中心に実施された再開発「日本橋室町東地区開発計画」の中で再興され、2014(平成26)年に現在の社殿が竣工。2016(平成28)年には、社殿の東に「福徳の森」が整備された。
MAP __(現在の場所)

江戸で最初の遊郭となった「吉原」

徳川家康の江戸入府以降、多くの武士や職人が江戸に暮らすようになったため、極端に男性が多い都市となった。このような中、江戸市中に遊女屋が営業を始めるようになり、江戸初期の1612(慶長17)年、安定した営業地を求め、庄司甚右衛門が幕府に陳情、1617(元和3)年、江戸初となる遊郭の設置が許可され、甚右衛門は遊郭の惣名主となった。葭の生い繁る湿地を埋立てて建設したことから「葭原」と呼ばれ、翌1618(元和4)年に開業、その後、縁起の良い「吉原」の漢字が当てられるようになった。1642(寛永19)年刊の『あづま物語』には、約1,000人の遊女がいたと記されるなど、大変な賑わいを見せていた。1656(明暦2)年、幕府は「日本橋」周辺の街が発展・拡大したことから、郊外の千束村(現・台東区千束)への移転を命じ、翌1657(明暦3)年には「明暦大火」による類焼もあり、同年内に移転が完了。以降、移転前の地は「元吉原」、移転後の地は「新吉原」と呼ばれるようになった。地図は1657(明暦3)年頃、「明暦大火」の直前に描かれた『新添江戸之図』の一部で、右側の堀で囲まれた場所が吉原になる。【図は1657(明暦3)年頃】

遊郭移転に前後して、「吉原」(のちの「元吉原」)周辺には「中村座」などの歌舞伎の芝居小屋が、周囲には茶屋が立ち並ぶようになり、のちに「芳町花街」として発展した。明治・大正期の女優で、のちに川上音二郎と結婚する川上貞奴(『日本初の女優』とも呼ばれる)は、「芳町花街」の芸妓出身であった。「芳町花街」は高度経済成長期頃まで賑わい、その後は衰退傾向にあるが、現在も花街の伝統を守り伝えている。写真は現在の「末廣神社」。江戸初期に「吉原遊郭」の産土神として信仰されていた神社で、遊郭移転後は地域の産土神として信仰され現在に至っている。
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「山王祭」と「神田祭」の一番山車を務めた大伝馬町

山王権現」(現「日枝神社」)と「神田明神」は「江戸城」を守護する神社として、徳川将軍家から崇敬を受けた神社。その祭礼である「山王祭」と「神田祭」は一年ごとに交互に開催され、両祭の祭礼行列は、「江戸城」の中に入って将軍の上覧を受けたことから「天下祭」とも呼ばれた。図は、天保年間(1830年~1844年)頃、歌川貞重により描かれた『山王御祭礼図』。50台もの壮大な山車が行列を成し市中を進む様子が描かれている。「山王祭」と「神田祭」の両祭において、江戸町域で筆頭の格を与えられていた大伝馬町は、一番山車(図の左下の諫鼓鶏(かんこどり))、南伝馬町は二番山車(その右隣の猿)を務めるという、特別な町であった。現在は「日本橋川」の南側が主に「日枝神社」、北側が主に「神田明神」の氏子地域となっている。
MAP __(大伝馬町)【図は天保年間頃】

江戸期の「神田祭」では、「附け祭(つけまつり)」と呼ばれた、巨大なはりぼての曳物などの行列も人気があった。写真は2005(平成17)年の「神田祭」の「附け祭」において、約215年ぶりに再現された「大鯰と要石」で、人形町「甘酒横丁」を巡行中の様子。要石で大鯰の頭を押さえることで、地震を防ぎたいとう江戸の人々の願いを込めた曳物で、寛政(1789年~1801年)頃に評判となり、当時の絵巻物にも描かれた。


芝居の街として発展した人形町の歴史

『江戸名所図会 堺町葺屋町戯場』

図は江戸末期の1834(天保5)年頃、長谷川雪旦が描いた『江戸名所図会 堺町葺屋町戯場(しばい)』。

江戸初期、「中橋」の南(現・京橋一丁目付近)には人形浄瑠璃などの芝居小屋が立ち並び、1624(寛永元)年には、京都から江戸に移った猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が、歌舞伎の「猿若座」を創設した。しかし、これらの芝居小屋は「江戸城」から近いことを理由に現在の人形町付近への移転を命じられた。「猿若座」は1632(寛永9)年に禰宜町(現・日本橋堀留町一丁目付近)へ、さらに1651(慶安4)年に下堺町(現・日本橋人形町三丁目付近)へ移転、この時「中村座」へ改称した。
MAP __(中村座跡地)

1634(寛永11)年には日本橋葺屋(ふきや)町(現・日本橋人形町三丁目付近)に「村山座」が開業、1667(寛文7)年頃に「市村座」となった。
MAP __(市村座跡地)

その後、「中村座」「市村座」は、木挽町(現・銀座六丁目)の「森田座」と併せ歌舞伎の『江戸三座』として人気を誇った。一帯には大小多くの芝居小屋が立地し、大名から町民までが楽しむ娯楽の地として発展、周辺には茶屋も集まり大いに賑わうようになった。

図は江戸末期の1834(天保5)年頃、長谷川雪旦が描いた『江戸名所図会 堺町葺屋町戯場(しばい)』。右上に「中村座」、その左下に「市村座」が描かれている。左下の橋は「堀江町入堀」に架かる「親父橋」。橋名の由来は「吉原」の開業の際、「日本橋」方面からの通路として、「親父」と呼ばれていた遊郭惣名主の庄司甚右衛門が架橋したため。右下には花街として発展した「よし町」の地名も見える。

しかし、江戸末期の1841(天保12)年、「中村座」は火災を起こし「市村座」とともに焼失、また、「天保の改革」により、すべての芝居小屋と関係者は浅草聖天町(のちの浅草猿若町、現・台東区浅草六丁目)への移転を命じられ、200年以上続いた人形町の芝居の街としての歴史は終焉を迎えた。

人形町の地名は、江戸期以来の通称であったが、1933(昭和8)年、正式に町名が「人形町」となった。地名の由来は、人形浄瑠璃や人形芝居に関する職人(製作、修理、人形師など)や人形商が多く暮らしていたことによる。ちなみに、「人形焼」は、1907(明治40)年創業の和菓子店「板倉屋」が人形町の名物として、人形を形をした菓子を開発したことに始まっている。


江戸で有数の盛り場であった「両国広小路」

江戸初期、幕府は防備のため「隅田川」(当時は「大川」「浅草川」などとも呼ばれた)への架橋は「千住大橋」以外認めなかったが、1657(明暦3)年の「明暦の大火」では、橋が無かったため、多くの江戸町民が逃げ場を失い、10万人ともいわれる死傷者を出した。このため、防災のために「大橋」が1659(万治2)年(1661(寛文元)年の説もあり)架橋された。1686(貞享3)年に武蔵国と下総国の国境が変更されるまでは国境であったことから、一般には「両国橋」と呼ばれた。当時の橋は木造であったため、類焼を防ぐため、東西の橋のたもとには、それぞれ火除地として広小路が作られた。この「両国広小路」は、建物がない広場であったため、飲食店の屋台や露天商、仮設の見世物や芝居の小屋などが立ち並ぶようになり、江戸で有数の盛り場として賑わうようになった。

図は1841(天保12)年頃、歌川広重により描かれた『東都名所 両国橋夕涼全図』。手前が西側の「両国広小路」(現・東日本橋二丁目付近)。「隅田川」の「両国橋」周辺では、毎年5月28日(旧暦)から8月28日までの間、「夕涼」の期間とされ、夜間の料理屋の営業や川遊びが許された。この「夕涼」は江戸前期の延宝(1673年~1681年)の頃より盛んになったという。「夕涼」の初日は「川開き」と呼ばれ、1733(享保18)年の「川開き」からは、毎年大花火(「両国の花火」、現「隅田川花火大会」の前身)が打ち上げられるようになった。このほか、「夕涼」の期間中は、連日のように花火(図左上)が打ち上げられ、人々を楽しませた。
MAP __(江戸期の両国橋) MAP __(両国広小路跡地)【図は1841(天保12)年頃】

「両国広小路」は明治初期頃まで盛り場として賑わった。「両国橋」は江戸期に何度も架け替えが行われ、1904(明治37)年に鉄橋となり、場所も少し上流(ほぼ現在の位置)へ移された。この橋は、1923(大正12)年の「関東大震災」では大きな損傷はなく、震災後の東京の応急・復旧工事で大きな役割を果たした。その後、1925(大正14)年頃に震災復興事業で架け替えられることが決定し、1932(昭和7)年に竣工した。写真左端のマンションの先付近が江戸期の「両国広小路」(西詰側)となる。

久松町にあった「明治座」

「明治座」の前身は、江戸末期から「両国広小路」で営業していた芝居小屋に始まる。1873(明治6)年に「両国広小路」での興行が禁止されたため、久松町(現・日本橋浜町二丁目10番付近)へ移転し「喜昇座(きしょうざ)」として開業、その後「久松座」「千歳座」と改称を経て、1893(明治26)年、初代市川左團次が買収し「明治座」とした。写真は1893(明治26)年の「明治座」となった頃の撮影。
MAP __【画像は1893(明治26)年】

「明治座」は、1923(大正12)年の「関東大震災」で焼失、1928(昭和3)年、旧地より100mほど東で現在地でもある、浜町二丁目(現・日本橋浜町二丁目31番付近)へ移転し再建された。戦前期までは歌舞伎、新派などの公演が多く打たれたが、1945(昭和20)年、「太平洋戦争」中の「東京大空襲」で再び焼失。戦後、1950(昭和25)年に再建され、歌舞伎、新派などのほか、松竹系、東宝系、東映系などのスターの公演も打たれるようなった。1993(平成5)年に再開発で建て替えられ、現在は「浜町センタービル」(写真)の中にある。
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江戸の名物が描かれた『新版御府内流行名物案内双六』

『新版御府内流行名物案内双六』は、江戸で流行していた名物を楽しむ絵双六で、実際にある店名が挙げられている。ふりだしは当時の江戸の食を支えていた「日本橋朝市」で、「ふりだし」を「売出し」と洒落を利かして表記している。また、あがりは「山王御祭礼」であり、「天下祭」が江戸の人々にとって特別な意味を持っていたことが分かる。【図は嘉永年間】

安産・子授けの神社としても信仰を集めるようになった「水天宮」 MAP __

東京の「水天宮」は、1818(文政元)年、当時の久留米藩主・有馬頼徳(よりのり)が、領地・久留米の「水天宮」を芝赤羽橋の上屋敷内に勧請して祀ったことに始まる。当時から江戸の人々から信仰を集めたため、毎月5日に限り参拝が認められるようになり、「情け有馬の水天宮」という言葉も生まれた。また、江戸期に「水天宮」の「鈴の緒」(鈴を鳴らす紐)を譲り受けた妊婦が腹帯として使用したところ、安産であったことが評判となり、安産・子授けにもご利益がある神社として、信仰を集めるようになったという。「水天宮」は、明治に入り、有馬邸の移転とともに、1871(明治4)年に青山へ、さらに翌1872(明治5)年に蛎殻町(現在地)へ移転した。図は1876(明治9)年、三代歌川広重により描かれた『東京名所之内 人形町通り水天宮』。【図は1876(明治9)年】

「水天宮」は、現在も安産・子授けなどで、篤い信仰を集めている。2016(平成28)年には「御造替」(建て替え)が完了し、免震構造を備えた安全な神社となり、2018(平成30)年に江戸鎮座200年を迎えた。


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