北条実時は、鎌倉幕府の執権だった北条氏の有力な一門・金沢北条氏の実質的な初代とされており、幕府の要職を務める一方で読書家としても知られ、学問・文学を好み、河内本『源氏物語』の注釈書の編纂も行っている。1275(建治元)年、政務を引退した実時は金沢の地に居を構え、邸宅内に蔵書を集めた「金沢文庫」を創設したが、翌年亡くなったとされる。
この文庫は、実時亡き後も、金沢北条氏で受け継がれた。鎌倉時代末期に一時、執権を務めた実時の孫・北条貞顕(さだあき)は、京の「六波羅探題」を務め、その間に宋版の漢籍などを収集していた。この経験を活かし、また、自らも写本を行うなどして、文庫の充実・収集に注力した。しかし、貞顕をはじめとする金沢北条氏の一門は、1333(元弘3・正慶2)年に鎌倉幕府とともに滅亡し、「金沢文庫」は、金沢北条氏の菩提寺である「称名寺」に受け継がれることとなる。その後、室町時代から江戸時代にかけては、この地を支配した有力者である後北条氏、江戸幕府初代将軍の徳川家康らが蔵書を持ち出し、散逸したとされる。
1930(昭和5)年頃の「神奈川県立金沢文庫」。
【画像は1930(昭和5)年頃】
現在の「神奈川県立金沢文庫」。「称名寺」の境内とはトンネルを介して隣接している。
「明治維新」後、初代内閣総理大臣の伊藤博文氏が散逸した蔵書の回収を行ったほか、「大日本帝国憲法」起草のための参考資料も寄進し、1897(明治30)年、横浜の実業家・政治家、平沼専蔵氏の寄付により「称名寺」の塔頭「大宝院」に「金沢文庫閲覧所」と「書庫」が復興された。しかし、この建物は1923(大正12)年の「関東大震災」で倒壊した。
MAP __(明治期の金沢文庫)
1930(昭和5)年、大橋新太郎氏の寄付により、昭和天皇の即位(「御大典」)の記念として「神奈川県立金沢文庫」と「昭和塾」が「称名寺」の境内に開設された。大橋氏は出版社「博文館」を創業した実業家で、現在の金沢区に別荘を持っていた。当時の「神奈川県立金沢文庫」は神奈川県の博物館・図書館の役割を担う施設で、「昭和塾」は主に青年の修養訓練を行う錬成道場であった。「昭和塾」は「神奈川県立金沢文庫」の西、「中世の隧道」を挟んで隣り合っていた。
MAP __(昭和期の金沢文庫)
戦後、横浜市の中心部に「神奈川県立図書館」「神奈川県立博物館」(現「神奈川県立歴史博物館」)が開設されるとそれぞれの機能が移転となり、「神奈川県立金沢文庫」は中世を中心に扱う歴史博物館となった。「昭和塾」は1947(昭和22)年に「神奈川県立神奈川公民館」、1952(昭和27)年に「神奈川県立社会教育会館」となり県の社会教育の中核施設として使用されたのち、1987(昭和62)年に閉館。「神奈川県立金沢文庫」は1990(平成2)年に「神奈川県立社会教育会館」跡地へ新築・移転となり現在へ至っている。
MAP __(現在の金沢文庫)