横浜が開港すると、生糸は輸出品の中心となり、関東や甲信地方の養蚕地を出身とする商人も集まるようになった。この中で、特に成功した商人の一人が原善三郎であった。
写真は「燈明寺 三重塔」の移築後となる、大正前期撮影の「三溪園」。
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【画像は大正前期】
江戸後期、武蔵国渡瀬村(現・埼玉県児玉郡神川町)の裕福な農家に生まれた原善三郎は、1862(文久2)年、開港間もない横浜の弁天通三丁目に生糸の売込商「亀屋」を創業。数年で横浜一の生糸売込商へ成長し、1874(明治7)年には「第二国立銀行」(「横浜銀行」の前身)を設立し初代頭取に、1892(明治25)年からは衆議院議員も務めるなど、横浜の政財界で活躍した。1868(明治元)年頃に、本牧・三之谷の土地約5万3千坪を購入、明治20年代に別荘「松風閣」を建てている。
岐阜県出身の教師、青木富太郎は、1892(明治25)年、教え子であった善三郎の孫娘と結婚して原家に入り原富太郎となった。1902(明治35)年からは「富岡製糸場」も経営(1938(昭和13)年まで)するなど、家業を更に発展させている。「関東大震災」後は、私財を投じ、また「横浜市復興会」の会長も務めて横浜の復興を牽引した。
富太郎は、善三郎の死後となる1902(明治35)年、本牧・三之谷の原家の別荘があった土地に、本宅となる「鶴翔閣」を建て、1905(明治38)年に本格的に庭園の造成に着手、同年には「旧天瑞寺寿塔覆堂」を敷地内に移築した。富太郎はこのころより雅号で「原三溪」(「三溪」は地名の三之谷にちなむ)を名乗るようになり、庭園も「三溪園」と呼ぶようになったといわれる。翌1906(明治39)年から、現在の外苑部分が「三溪園」として無料で一般公開されるようになり、その後も、1914(大正3)年の京都の「燈明寺 三重塔」をはじめ、多くの歴史的な建造物が庭園内へ移築されるなど、整備が進められた。
写真は現在の「三溪園」。
「三溪園」は、「関東大震災」で一部の建物を損壊し、さらに「太平洋戦争」の空襲で大きな被害を受けた。戦後の1953(昭和28)年、横浜市は原家より、庭園の大部分の寄贈を受け復旧工事に着手。翌1954(昭和29)年に外苑の公開が始まり、1958(昭和33)年には初めて内苑部分が一般公開された。2007(平成19)年には、国の名勝に指定、現在も市民をはじめ、国内外の観光客にも親しまれる庭園となっている。