鎌倉幕府が置かれた鎌倉に近く、「東京湾」に面した温暖な気候をもつ磯子・金沢は、早くから開けた場所で、鎌倉時代には金沢北条氏の本拠地となり、「称名寺」や「金沢文庫」が創設された。また、海に近い風景は『金沢八景』として賞賛され、明治・大正時代には、別荘地としても開発された。やがて、横須賀の軍港に近いことから海軍の航空関係の諸施設が誕生し、その技術は現在も飛行機産業に受け継がれている。また、「根岸湾」や「平潟湾」は江戸時代以来の埋め立てで姿を変え、新田・塩田から住宅地・工業用地に変わってきた。複数の鉄道路線が通り、湾岸部の汐見台、内陸部の港南台、洋光台周辺などに大規模団地も拡がっている。
金沢北条氏と「金沢文庫」創設
金沢北条氏の菩提寺だった「称名寺」 MAP __
国内に現存する最古の武家文庫「金沢文庫」
「金沢文庫」は1275(建治元)年頃、北条実時が邸宅内に設けた蔵書の文庫で、国内に現存する最古の武家文庫となっている。金沢北条氏の滅亡後は、菩提寺である「称名寺」により守られてきたが、室町時代から江戸時代にかけて蔵書が散逸した。画像内の文章は中国から伝わった政治書『群書治要』を実時が書写したものとされる。実時の手蹟(しゅせき)と花押(かおう)であり、右下に「金澤文庫」の墨印記が確認できる。
「観梅」の名所として有名だった「杉田梅林」 MAP __
鎌倉時代創設の「金沢文庫」が歴史博物館になるまで MAP __
北条実時は、鎌倉幕府の執権だった北条氏の有力な一門・金沢北条氏の実質的な初代とされており、幕府の要職を務める一方で読書家としても知られ、学問・文学を好み、河内本『源氏物語』の注釈書の編纂も行っている。1275(建治元)年、政務を引退した実時は金沢の地に居を構え、邸宅内に蔵書を集めた「金沢文庫」を創設したが、翌年亡くなったとされる。
この文庫は、実時亡き後も、金沢北条氏で受け継がれた。鎌倉時代末期に一時、執権を務めた実時の孫・北条貞顕(さだあき)は、京の六波羅探題を務め、その間に宋版の漢籍などを収集していた。この経験を活かし、また、自らも写本を行うなどして、文庫の充実・収集に注力した。しかし、貞顕をはじめとする金沢北条氏の一門は、1333(元弘3・正慶2)年に鎌倉幕府とともに滅亡し、「金沢文庫」は、金沢北条氏の菩提寺である「称名寺」に受け継がれることとなる。その後、室町時代から江戸時代にかけては、この地を支配した有力者である後北条氏、江戸幕府初代将軍の徳川家康らが蔵書を持ち出し、散逸したとされる。
明治維新後、初代内閣総理大臣の伊藤博文が散逸した蔵書の収集・回収を行い、1897(明治30)年、「称名寺」の「大宝院」に文庫を再建した。
しかし、新設された「金沢文庫」は1923(大正12)年の「関東大震災」で倒壊。その後の1930(昭和5)年に現在の金沢区に別荘を持っていた実業家・大橋新太郎の寄付を受け、「神奈川県立金沢文庫」が誕生した。1990(平成2)年には、現在のような中世の歴史博物館に姿を変えて、文化財の展示や講座が行われている。