このまちアーカイブス INDEX

東京の郊外としての発展

昭和初期、東京は震災復興期にあり、また、鉄道が発達し交通の利便性が向上した時期でもあり、工場をはじめ、さまざまな施設が移転・新設によって、郊外に誕生した。川越周辺でも、この時期に大規模な工場などが立地しており、産業や土地利用にも変化が見られた。鉄道の発達と共に、川越の街の賑わいは駅がある南側へ徐々に移っていき、駅周辺は県内有数の商業地として発展。一方、古くからの市街地には、各時代の古い街並みも残り、現在は江戸情緒や歴史的・レトロな建物が多く残る東京近隣の観光地として、国内外から多くの観光客が訪れるようになっている。


埼玉県初のゴルフ場「霞ヶ関カンツリー倶楽部」 MAP __

発智(ほっち)家は江戸時代には笠幡村(のちの霞ヶ関村の一部、1955(昭和30)年に川越市へ編入)の名主を務めた一帯の大地主であった。黒須村(現・入間市)の名主・繁田家の長男として生まれ、1883(明治16)年に発智家の養子となった発智庄平は、教育者・篤志家として地域の発展に貢献し、また「黒須銀行」を創業するなど実業家としても活躍、晩年には霞ヶ関村の村長も務めた。発智庄平は晩年の1927(昭和2)年に霞ヶ関村の発展のためゴルフ場の開設を計画、1929(昭和4)年に埼玉県初となるゴルフ場「霞ヶ関カンツリー倶楽部」(現在の「東コース」)を開場した。1932(昭和7)年には「西コース」も増設され、2コース36ホールのゴルフ場となった。

1938(昭和13)年、南側の隣接地にパブリックコースの「新霞ヶ関カンツリー倶楽部」を開設(翌年「秩父カントリー倶楽部」へ改称)したが、1940(昭和15)年、朝霞のコースが陸軍に接収された「東京ゴルフ倶楽部」が、ここへ移転・合併となり、現在の「東京ゴルフ倶楽部」が誕生した。

「霞ヶ関カンツリー倶楽部」は、終戦後の1945(昭和20)年、米軍に接収され、1952(昭和27)年に返還された。写真は1959(昭和34)年頃の様子。【画像は1959(昭和34)年頃】

「霞ヶ関カンツリー倶楽部」では、戦前期より各種の大会が開催されてきた。2017(平成29)年には、当時の安倍晋三内閣総理大臣とアメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領のゴルフ外交の舞台となった。2021(令和3)年の「東京2020オリンピック」では、ゴルフ競技の会場となり、女子は稲見萌寧選手が銀メダルを獲得した。写真は現在の「霞ヶ関カンツリー倶楽部」入口。

工場の進出

大正期の川越の工業は、綿織物・生糸などの繊維や、菓子・日本酒などの食料品、「川越箪笥」などの木工を中心とし、工場も小規模なものであった。昭和期に入ると、大規模な工場が操業を開始。戦後は市内郊外に大規模な工場・工業団地も建設された。

埼玉県は北関東同様、小麦の産地で、小麦粉の消費も多い地域。川越には、1919(大正8)年に「武蔵製粉」が設立され、1921(大正10)年に製造が開始された。1935(昭和10)年に「愛国製粉」に改称、1938(昭和13)年に「日清製粉」に吸収合併され、同社の「川越工場」となった。同工場の場所は、現在の東武東上線と西武新宿線が立体交差する付近で、東武東上線からは引込線、西武新宿線には側線が設けられ、製品や原材料の輸送に使用された。写真は1959(昭和34)年頃の様子で、敷地の南側から撮影している。
MAP __【画像は1959(昭和34)年頃】

「日清製粉 川越工場」は、1974(昭和49)年に製造を停止し機能は「千葉工場」へ移転、工場跡地は配送センター(1988(昭和63)年閉鎖)として利用されたほか、1981(昭和56)年にマンション「川越パークファミリア」(写真)が建設された。

戦後、川越周辺では大規模な工業団地の整備も進められた。写真は「日本住宅公団」(現「UR都市機構」)により、1962(昭和37)年着工、1964(昭和39)年入居開始となった「川越狭山工業団地」。当時日本一の規模の工業団地で、西武新宿線沿い、川越市と狭山市に跨いで造成された。
MAP __

「川越少年刑務所」の移転と跡地 MAP __

「川越少年刑務所」は、1871(明治4)年、喜多町にあった牢屋を「川越囚獄」として発足したことに始まる。その後、改組・改称を経て、1902(明治35)年、国内初の幼年囚の特設監に。1909(明治42)年に脇田本町に移転し、1922(大正11)年に「川越少年刑務所」へ改称した。写真は1952(昭和27)年頃の様子。【画像は1952(昭和27)年頃】

「川越少年刑務所」は、1969(昭和44)年、現在地となる川越市南大塚へ移転となった。跡地は川越市が取得し、その後、一帯では「川越駅西口土地区画整理事業(第一工区)」が施工され、1977(昭和52)年度に完了した。市有地の部分は、自転車置き場など暫定利用を経て、2013(平成25)年度頃より利活用の検討が進められ、2018(平成30)年に「川越駅西口市有地利活用事業」が着工、2020(令和2)年に「U_PLACE」として開業した。

古くからの商業地「川越銀座商店街」は「大正浪漫夢通り商店街」へ MAP __

現在の「大正浪漫夢通り商店街」は、川越市内でも古くからの商業地で、大正期には、埼玉県初の商業協同組合が発足した。写真は1959(昭和34)年頃の「川越銀座商店街」の様子で、当時はネオンアーチが設置されていた。1962(昭和37)年には県内初となるアーケードが設置され、日除け・雨除けの下、快適に買い物が楽しめるアーケード商店街として賑わった。【画像は1959(昭和34)年頃】

「川越銀座商店街」のアーケードは、老朽化により1995(平成7)年に撤去された。その後「大正浪漫」をテーマとする街づくりが進められ、現在では大正期・昭和初期の洋風建築や、伝統的な町屋・蔵造りなどが混在し、老舗も多く残る「大正浪漫夢通り商店街」となっている。この地が長らく賑わいの中心地であったことも感じられ、観光客にも人気の商店街となっている。


埼玉県最大の都市から人気の観光地『小江戸川越』へ

現在、人気の観光地として、休日はもちろん、平日でも多くの観光客を集める川越の中心部。江戸期以降、関東有数の都市として栄え、明治期には埼玉県第一の都市として発展した。一帯には、江戸・明治・大正・昭和と、各時代の繁栄が感じられる、有力者が建てた建物が随所に残るが、こうした、様々な時代の建物が多く残る理由として、中心市街地の移動がある。

江戸時代に城下町として栄えた「十ヶ町」一帯の繁栄は、明治期にも引き継がれた。明治中期の「川越大火」では多くの木造建築を焼失。江戸期の蔵が一部残ったほか、復興の際は店蔵銀行建築など、多くの耐火建築が建設され、現在の「一番街」周辺の町並みが誕生した。

舟運で栄えていた川越の有力者は、鉄道の敷設には消極的で、明治中期に最初の駅として開業した、川越鉄道「川越駅」(現・西武「本川越駅」)は街の南端、中心部より1kmほど南に開設された。1914(大正3)年には東上鉄道「川越町駅」(現・東武「川越市駅」)も「川越駅」のそばに開業。旅客・貨物とも、舟運から鉄道輸送に代わっていく中で、街の中心地も駅がある南寄りへ徐々に移っていった。

こうした街の中心地の南への移動により、大正期・昭和初期の、いわゆる洋風建築や看板建築などが、現在の「大正浪漫夢通り商店街」付近にも多く見られるようになった。また、昭和初期には、現在の「本川越駅」と「一番街」を結ぶ「中央通り」が開通すると、沿道には新しい商店が立地するようになった。

現在の「丸広百貨店 川越店」と「クレアモール」

写真は現在の「クレアモール」と「丸広百貨店 川越店」(右奥)。MAP __(クレアモール)MAP __(丸広百貨店 川越店)

戦時体制下の時期に国鉄(現・JR)「川越駅」が開業、東武東上線との乗換駅となった。戦後・昭和中期以降、「川越駅」が市の中心駅となっていく中で、「川越駅」と「本川越駅」方面を結ぶ通り沿いの商店街が大きく発展。この商店街は1997(平成9)年に愛称「クレアモール」となり、現在では埼玉県内で最も賑わう商店街といわれている。

1964(昭和39)年、「丸広百貨店 川越店」は「一番街」から「本川越駅」に近い新富町へ移転しており、川越の商業の中心地が駅周辺へ移るきっかけの一つとなった。その後、「川越駅」「本川越駅」の周辺・駅ビルには、「イトーヨーカドー 川越店」(1967年、現「イトーヨーカドー食品館 川越店」)、「丸井 川越店」(1973年、現「ドン・キホーテ 川越東口店」)、「川越マイン」(1982年)、「アトレマルヒロ」(1990年)、「本川越ペペ」(1991年)、「ルミネ 川越店」(2004年)、「ウニクス川越」(2015年)、「U_PLACE」(2020年)など(カッコ内は開業年、和暦は省略)、多くの大型商業施設も誕生しており、川越の商業の中心地として一層の賑わいを見せている。

中心市街地が時代により南側へ拡大・移動したことにより、「一番街」をはじめとする旧市街地の、各時代の建物は更新されずに残されたものも多く、1980年代以降、川越の建物の文化財的価値が見直される中で、徐々に注目されるようになった。現在は、街全体で江戸・明治・大正・昭和と、各時代の建築を歴史博物館のように見て回ることができる、周遊型の観光地となった。

江戸時代の城下町を下地として、江戸および明治期の東京の風情を引き継ぐ蔵造りの町並み、江戸時代より栄える寺社、「川越まつり」をはじめとする江戸の文化の継承、江戸時代から続くうなぎ・サツマイモをはじめとする食文化など、様々な江戸を感じさせることから、近年は『小江戸川越』と広く呼ばれるようになっている。




MAP

この地図を大きく表示



トップへ戻る