明治から大正期の官庁は、霞ヶ関、大手町を中心に、「宮城」(現「皇居」)周辺に分かれて立地していたが、1923(大正12)年に「関東大震災」が発生。これにより各庁舎は甚大な被害に遭い、その復興を機に、霞ヶ関への官庁の集中が進められた。
震災復興期から昭和前期の霞ヶ関・永田町
「桜田門」前に移転してきた「警視庁」 MAP __
「文部省」庁舎の移転 MAP __
「文部省」は、学術・教育を担当する官庁として1871(明治4)年に「湯島聖堂」内に設立された。翌年に大手町へ移転、1877(明治10)年からは竹平町(現・千代田区一ツ橋)に庁舎を構えたが、1923(大正12)年に発生した「関東大震災」により焼失。1933(昭和8)年に、三年町(現・霞が関三丁目)に新しく建てられた庁舎(写真)へ移転した。
「文部省」の庁舎は耐震・耐火建築として建設されたこともあり、「太平洋戦争」中の「東京大空襲」での焼失からは免れた。戦後も「文部省」(2001(平成13)年の省庁再編以降は「文部科学省」)の庁舎として使用されてきたが、建物の老朽化や機能の集約などのため、2001(平成13)年、隣接する「会計検査院」庁舎と一体で再整備する検討が始まり、2005(平成17)年に着工、2007(平成19)年に「中央合同庁舎第7号館」(再開発地区名は「霞が関コモンゲート」)が完成した。旧庁舎は一部が保存され、同年「旧文部省庁舎」として国の登録有形文化財となった。写真は、現在の「中央合同庁舎第7号館」。手前が「旧文部省庁舎」で、主に「文化庁(東京庁舎)」が、奥の高層ビルが「西館」で、主に「文部科学省」と「会計検査院」が使用している。
戦時中に「総理大臣官邸」に隣接して建設された「国防電話局」 MAP __
1943(昭和18)年、戦時下における非常時の通信手段の確保のため、「国防電話局」(正式名は「東京中央電話局麹町分局」)が「総理大臣官邸」裏の隣接地に着工し、翌1944(昭和19)年に完成、開局した。設計は、当時「逓信省営繕課」の課長であった建築家・山田守氏。中は普通の地下2階・地上3階建ての鉄筋コンクリート局舎であったが、空襲に備え、窓のないアーチ型の、厚さ約2mの鉄筋コンクリート耐弾壁で覆われた。冷暖房を完備、自家発電機も設置され、1945(昭和20)年6月以降は、局舎内の会議室で閣議が行われることもあった。終戦後も、しばらく電話の交換業務が続けられたが、1946(昭和21)年に廃局となった。2,500トンものセメントを使用した建物は、取り壊しもままならず残され、1953(昭和28)年からは「自衛隊」の通信隊が使用、1960(昭和35)年からは「自衛隊」の倉庫などに利用された。
写真は1953(昭和28)年、「東京都立日比谷高等学校」からの撮影で、左上の建物が当時の「総理大臣官邸」。
霞ヶ関に移転した「華族会館」 MAP __
戦後になり、1947(昭和22)年に華族制度が廃止されると、「華族会館」は「霞会館」と名称を改めた。「霞会館」は建て替えられ、現在は「霞が関ビルディング」になっている。写真は、かつて「華族会館」の入口があった西側から撮影した「霞が関ビルディング」で、右の建物は「東京倶楽部ビルディング」。
料亭「幸楽」は「プルデンシャルタワー」へ MAP __
料亭「幸楽」は、1911(明治44)年に日比谷で牛肉店として創業し、1929(昭和4)年に永田町二丁目へ移転してきた。1936(昭和11)年2月26日に決行された「二・二六事件」では、「山王ホテル」とともに決起部隊の本部となった。写真は昭和戦前期の様子。