江戸期から続く「四親王家」の一つ、有栖川宮家。熾仁親王は、幕末期から明治初期にかけて新政府の「東征大総督」「総裁」も務め、1871(明治4)年からは有栖川宮家の当主となった人物。「東京奠都」に伴い、1869(明治2)年に京都から東京・神田小川町へ移り、数度の転居ののち、1875(明治8)年、霞ヶ関一丁目にあった副島種臣(そえじまたねおみ、明治の元勲で外務卿なども務めた)の邸宅を買い上げ本邸とした。その後、隣接する「外務省」用地が加えられた上で、邸宅(洋館はジョサイア・コンドルの設計)の建て替えが行われ、1884(明治17)年に完成した。1895(明治28)年、熾仁親王の死去により、弟の威仁(たけひと)親王が当主となった。
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江戸期に有力大名の大規模な上屋敷が置かれていた霞ヶ関・永田町界隈には、明治期になると、政府要人の官舎や、宮家・華族などの邸宅が置かれるようになった。これらの広大な邸宅地であった場所は、現在は国の中枢を担う施設や、政府要人の公邸などに利用されている。