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賑わいの地へ発展

日比谷・有楽町周辺は商業地としても発展した。戦後から現在にかけては、庁舎や新聞社、オフィスビルなどの跡地の再開発により大型の商業施設も誕生し、多くの人々で賑わう街となった。


日比谷の三角地 MAP __

図は1903(明治36)年に発行された『東京市区改正新設計図』の一部(右方向が概ね北)。現在の「日比谷交差点」と「数寄屋橋」を直線的に結ぶ道路(現「晴海通り」の一部、地図では青線で示している)は、「市区改正」で計画され、1910(明治43)年頃に開通した。この道路は、江戸期に始まる丸ノ内の長方形の町割りに対して斜めに通されたため、道路の南(地図では左)に三角地、北(地図では右)に変形地が誕生した。【図は1903(明治36)年発行】

日比谷の三角地の一画には、明治末期に「日比谷ホテル」(写真)が開業した。1911(明治44)年、このホテル内に「大日本フィルム機械製造会社」の事務所が置かれ、翌年、当時の映画製作大手4社の買収に成功、元号が変わった同(大正元)年9月、「日本活動写真株式会社」(通称「日活」)が設立された(「日活」の本社は日比谷ではなく日本橋に置かれた)。【画像は明治末期】

写真は大正前期の日比谷の三角地。写真奥には前掲の「日比谷ホテル」が改称した「東京ホテル」(明治期の同名のホテルとは別の施設)が見える。写真左端奥の建物は「有楽町三井集会所」と思われる。写真右端付近が前掲の地図の変形地で、戦後に「日活国際会館」が建設される。【画像は大正前期】

写真は現在の同地点付近の様子で、左側の三角地だった場所には「東宝日比谷プロムナードビル」(写真中央)や「日比谷マリンビル」(写真中央右奥)などがある。「東宝日比谷プロムナードビル」は「東宝ツインタワービル」(1969(昭和44)年竣工)の建て替えで2023(令和5)年に竣工している。

図は「関東大震災」(以下震災)後の、日比谷周辺の「帝都復興土地区画整理」の状況を示したもので、黒い部分が新たに道路となった箇所。上図と比較しやすくするため、右方向が概ね北になるように回転してある。大正後期、三角地では、フランク・ロイド・ライト(当時「帝国ホテル」の新館建設のため来日していた)設計による10階建ての住宅と商業施設の複合ビル、「日比谷三角アパートメント」の建設が計画され、1923(大正12)年秋に着工の予定であったが、同年、震災が発生。さらに区画整理で三角地が解消されたため、ライト設計のビルが建設されることはなかった。区画整理後、三角地だった場所は「日比谷常磐生命ビル」などになった。【画像は1932(昭和7)年発行】

「有楽町駅」の開業 MAP __(有楽町駅)

現在の「新橋駅」付近から「東京駅」付近までの間の、JR山手線などが通る高架橋は、明治中期の「市区改正」で計画された新橋と上野を結ぶ鉄道の一部で、「新永間市街高架線」として1900(明治33)年に着工、1910(明治43)年に完成した。煉瓦構造の連続アーチが基本となっており、道路と交差する部分は鉄橋となっている。写真は建設中の「新永間市街高架線」で、右に見える建物は「帝国ホテル」の一部。【画像は明治後期】

写真は、JR「有楽町駅」と「新橋駅」の間、「内山下町橋高架下」に2020(令和2)年に開業した「日比谷 OKUROJI(オクロジ)」。明治期の高架橋、東海道線の高架橋、東海道新幹線の高架橋の下を一体として再整備した商業施設で、「新永間市街高架線」の煉瓦アーチを近くで見ることができるほか、歴史についての案内板も設置されている。

写真は明治後期~大正前期の高架橋を通る電車。手前の川は「外濠」の一部で、奥に見える建物は「帝国ホテル」。【画像は明治後期~大正前期】

写真は現在の様子。写真下部に通る電車がJR山手線。現在、一部の高架橋のアーチ下部分は、店舗や事務所として利用されている。「外濠」は戦後に埋立られ、1959(昭和34)年に「東京高速道路」が開通している。過去の写真で「帝国ホテル」があった場所は、「帝国ホテル」の「インペリアルタワー」になっている。

「有楽町駅」は1910(明治43)年、高架橋の開通と同時に電車線の駅として開業した。写真は明治後期の「有楽町駅」付近の高架下の様子。駅舎の左の並びに見える建物は「報知新聞社」。【画像は明治後期】

写真は現在の同地点付近の様子。明治期に造られた高架橋は、現在も補修・補強された上で使用されている。「報知新聞社」があった場所は、現在「ビックカメラ 有楽町店」になっている。

写真は明治後期~大正前期の撮影。中央奥に見える高架の駅が「有楽町駅」。手前の路面電車が通る通りは現在の「晴海通り」。この写真の右手には、震災復興の土地区画整理ののち、1933(昭和8)年に「日本劇場」が開場している。【画像は明治後期~大正前期】

「晴海通り」から「有楽町駅」方面を望む。右に見える建物は「日本劇場」の跡地に誕生した「有楽町マリオン」。

「三信ビル」と「美松百貨店」

震災後、日比谷の三角地では震災復興の土地区画整理が行われ、1930(昭和5)年、「日比谷交差点」の角に「日比谷常磐生命ビル」が、その南隣(写真では右隣)には「三信ビルディング」(以下「三信ビル」)が竣工した。写真は1930(昭和5)年~1935(昭和10)年頃の撮影。

「三信ビル」は地上8階、地下2階のオフィスビルで、「三井合名会社」(「三井財閥」の持ち株会社)と「三井信託銀行」(現「三井住友信託銀行」)の共同事業として建設された。1・2階は吹き抜けでアーケード(アーチ型天井)がある商店街となっていた。
MAP __(三信ビル跡地)【画像は1930(昭和5)年~1935(昭和10)年頃】

写真は現在の様子。「三信ビル」は老朽化により2007(平成19)年に解体。隣接する「日比谷三井ビル」跡地とともに「三井不動産」が一体開発し、2018(平成30)年に「東京ミッドタウン日比谷」(写真奥の高層ビル)が開業した。「日比谷常磐生命ビル」は会社の再編に伴うビル名の変更を経て、戦後に「朝日生命日比谷ビル」となった。1984(昭和59)年、写真中央手前のビルに建て替えられたのち、2004(平成16)年に「今治造船」が取得し「日比谷マリンビル」へ改称、現在に至っている。

「日比谷常磐生命ビル」には、テナントとして1931(昭和6)年に「美松百貨店」が開業した。当初は、神田の呉服店「伊勢丹」に百貨店出店の話を持ち掛けていたが、社長の小菅丹治氏(二代目)は新宿への出店を決定。日比谷への出店を主張していた丹治氏の従弟が「伊勢丹」を退職し開業したのが「美松百貨店」であった。写真は開業当初の頃の1階売場の様子。しかし経営は上手くいかず、1935(昭和10)年に閉店した。
MAP __(美松百貨店跡地)【画像は1931(昭和6)年頃】

1932(昭和7)年、有楽町の商店主らにより、「日比谷公園」での盆踊り大会が企画、開催された。「美松百貨店」とタイアップし、参加のためには「美松百貨店」で揃いの浴衣を購入する必要があった。この盆踊りのため、「丸の内音頭」(作詞・西条八十、作曲・中山晋平)が制作され、翌年、タイトル・歌詞を変更し「東京音頭」として発売すると大ヒット。現在も多くの人々に親しまれる音頭となっている。

閉店した「美松百貨店」は、榎本正氏(当時「銀座会館」など多くのカフェーを経営)が買収。地下1階から2階部分に「味のデパート美松」を開業し、1階には音楽バンドも入った音楽喫茶「美松」を開店した。写真は「味のデパート美松」時代の入口付近。1940(昭和15)年、榎本氏は銀座の「三越」の隣(現「銀座三越」の新館部分)に「キャバレー美松」を開店し、戦後、銀座を代表するキャバレーの一つへ発展。1962(昭和37)年に閉店するまで「美松」の名を残していた。【画像は昭和10年代】

戦後初の大規模ビル「日活国際会館」 MAP __

1948(昭和23)年、映画製作・配給会社の「日活」(旧「日本活動写真」、1945(昭和20)年に改称)は、「日比谷交差点」の一角となる土地を取得した。この土地は「GHQ」の庁舎が近いため、接収され駐車場として利用されていた。「日活」は、ここに国際的な施設を作ることを計画、「GHQ」に計画を伝えるとともに接収の解除を願い出ると、「GHQ」の賛同と後押しを得ることに成功。翌年接収が解除され、1950(昭和25)年、「日活国際会館」が着工となった。「GHQ」の駐車場の移転先は「楠木正成像」のそば(現在の「楠公駐車場」)であったという。

建設地のあたりは、江戸初期に「日比谷入江」を埋立てた土地で、湧出水対策などが必要であった。そのため、先に地上で地下4階分の建物を一体的な構造で建設し、建物下の土を掘削しながら地下に沈めるという、当時としては画期的な「潜函工法」が採用された。地下に沈める作業は1950(昭和25)年末に開始し、約半年で完了。その後、地上9階分の工事が進められ、1952(昭和27)年に竣工、開館を迎えた。【画像は1959(昭和34)年】

1970(昭和45)年、「日活」の業績悪化に伴い「日活国際会館」は売却され、賃貸オフィスビルの「日比谷パークビル」となった。その後、2003(平成15)年にビルは解体。跡地には高級ホテル「ザ・ペニンシュラ東京」が建設され、2007(平成19)年に開業した。

1952(昭和27)年の「日活国際会館」の開館と同時に、6階から9階には「日活国際ホテル」が開業、「日活」本社も会館内に移転したほか、賃貸オフィスも用意され、地下1階には商店街「日活アーケード」、地下2~4階には地下ガレージが誕生した。当時「日活国際ホテル」は『東洋一の豪華ホテル』を謳い、1960(昭和35)年には石原裕次郎と北原三枝が、1962(昭和37)年には小林旭と美空ひばりが結婚式を挙げている。写真は開業年撮影の地下商店街。【画像は1952(昭和27)年】

「東京都交通局」の本局庁舎の場所に誕生した「東京交通会館」 MAP __

「東京市電気局」(1943(昭和18)年より「東京都交通局」)は、1911(明治44)年、東京市が路面電車と電気供給の事業を行うため、「東京鉄道株式会社」を買収して誕生した。当初の本局庁舎は「東京鉄道」本社(現在の「日生劇場」の場所にあった)がそのまま使用された。現在の「東京交通会館」の場所には「東京鉄道」から引き継いだ車庫があり、大正期にこの場所へ本局庁舎が移転している。写真は1940(昭和15)年頃の本局庁舎で、この建物は戦時中の空襲で全焼した。戦後、焼け跡はヤミ市となり、多数のバラックや露店に占拠された。【画像は1940(昭和15)年頃】

疎開していた「東京都交通局」の本局をこの地へ戻すため、1948(昭和23)年に敷地の線路沿いの一画を出店者に貸与する形で露店を整理、約100軒からなる飲食店街(通称「すしや横丁」)が誕生。その後、本局の庁舎が「すしや横丁」の東側に建設され、1949(昭和24)年に完成した。1962(昭和37)年、本局庁舎と「すしや横丁」一帯の再開発が決定、翌年より「東京交通会館」の建設が始まったが、「すしや横丁」の一部店舗は補償問題から取り壊しが遅れ、最後の一軒が撤去されたのは1968(昭和43)年であった。「東京交通会館」は1965(昭和40)年に開業、「東京都交通局」本局のほか商業施設やオフィスなどが入居し、最上階には回転展望レストランも設けられた。「すしや横丁」にあった飲食店の一部は地下の飲食店街に入居した。写真は1967(昭和42)年の撮影。【画像は1967(昭和42)年】

1991(平成3)年、「都庁」の新宿移転に伴い、「東京都交通局」の本局も新宿へ移転した。写真は現在の「東京交通会館」。近年は各道府県などのアンテナショップも多く出店している。



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