「服部時計店」(現「和光」)は1932(昭和7)年の竣工ではあるが、1920(大正9)年の着工のため、高さは100尺(約30.3m)、7階建てで建設されており、時計塔を含めると39.39mとなる。その右奥が「教文館ビル」。
戦前期の建築は1920(大正9)年の「市街地建築物法施行令」により高さ100尺(約30.3m)以下(住居地域外の場合、屋上突出物を除く)とされ、「関東大震災」からの復興期の1931(昭和6)年、メートル法による31m以下へ変更された。一般に、100尺、あるいは31mを上限として建設されるビルは7~10階建てとなる。戦前、この制限の下、建設され現在も銀座に残るビルは「服部時計店」(現「和光」)、「教文館ビル」などがある。
写真は、銀座の戦後の大型ビルとしては初期の建設となる、1951(昭和26)年竣工の「日本楽器(ヤマハ)銀座ビル」。このビルは建替えられ、2010(平成22)年に新しい「ヤマハ銀座ビル」が開業している。
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戦後は「建築基準法」により、引き続き高さ31m以下の制限が設けられた。銀座においては、1951(昭和26)年竣工の「日本楽器(ヤマハ)銀座ビル」、1957(昭和32)年竣工の「小松ストア」、1962(昭和37)年竣工の「資生堂会館」(のちの「資生堂パーラービル」)、1963(昭和38)年竣工の「三愛ドリームセンター」など、話題となったビルが多数建設されたが、もちろん全て高さ31m以下(屋上エ作物を除く)で建設されている。
1963(昭和38)年、「建築基準法」が改正され「容積地区制度」が導入となり、銀座は31mの絶対高さ制限から、容積率による高さ制限へ変更となった。「容積地区制度」導入前の銀座のビルは、敷地いっぱいに建てられていたほか、地下階を利用していたビルもあり、改正後にビルを建替える際は、容積率の関係で、延べ床面積を小さくしなければならなく、既存のビルの建替えは進まなくなった。以降、ほかの市街地と比べ高層化は進まず、高さ30m前後(看板などを入れると40~50m前後)のビルが立ち並ぶ街並みが維持された。
2017(平成29)年に「松坂屋 銀座店」跡地に竣工した「GINZA SIX」は高さ56mで建設されているほか、旧来のビルの高さである31mまでが商業施設として設計されている。
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1998(平成10)年、国の規制緩和策の一環で容積率の割り増しが認められるようになったことから、銀座の賑わいと風格を維持するため、地区計画「銀座ルール」が定められ、高さの制限については、「銀座通り」などの大通り沿いでは56mまでとなった。「資生堂パーラービル」の建替えで、2000(平成12)年に竣工した「東京銀座資生堂ビル」は、この「銀座ルール」の適用第一号となった。その後、2002(平成14)年に「都市再生特別措置法」が制定されると、銀座にも大規模開発プロジェクトが計画されるようになったため、2006(平成18)年、「銀座ルール」を改訂し、大規模開発に対する除外規定を削除、また、屋上工作物を設ける場合は建物の高さ制限に10mを加えたものとなった。現在は、この制限の範囲内で再開発が進められ、多くのビルが建替えられている。