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明治期の銀座

銀座一帯は江戸時代から「東海道」沿いに位置し呉服店などで賑わった街であったが、1872(明治5)年の「銀座大火」で焼失すると、明治新政府により耐火構造で国内初の西洋風の街並みとなる煉瓦街が建設された。その後、ガス灯の設置、鉄道馬車の開通、西洋料理店や勧工場(かんこうば)の開店などが続き、先進的な街として発展していった。


錦絵と写真に見る明治前期の銀座の街並みの変遷

江戸期の銀座は「東海道」(現「銀座通り」)沿いに大きな商店があり賑わう街であった。錦絵は1869(明治2)年に描かれた『東京尾張町之図』。建物は江戸期からのものであるが、馬車や洋装の人々が行き交い、新しい時代になったことを感じさせる。描かれている場所は現在の「銀座五丁目交差点」付近。中央の「布袋屋呉服店」の場所には、「銀座大火」ののち、煉瓦街最大となる建物が1873(明治6年)に竣工、江戸時代からの両替商・呉服商「島田組」の「恵比寿屋」となったが翌々年に倒産。1877(明治10)年、この建物に、「東京日日新聞」(「毎日新聞」の前身の一つ)を発行する「日報社」が移転してきた。
MAP __【図は1869(明治2)年】

銀座一帯は「銀座大火」で焼失した。これを機に、明治新政府は銀座の都市改造に着手、「銀座通り」は十五間(約27m)に拡幅、煉瓦敷きの歩道も設けられ、耐火構造で国内初の西洋風の街並みとなる煉瓦街が建設された。設計したのは、明治政府の「お雇い外国人」の土木技術者、トーマス・ジェームス・ウォートルス(アイルランド出身)。煉瓦街は1873(明治6)年にまず「銀座通り」が完成、煉瓦家屋は銀座一丁目の方から順に建設され、1877(明治10)年に全地区が完成した。写真は1873(明治6)年の撮影で、この段階で歩道に街路樹も植えられている。【画像は1873(明治6)年】

写真は1874(明治7)年の撮影。煉瓦家屋が通りに面する部分は列柱が並び、威厳がある街並みであった。2階はバルコニーが張り出し、下は歩廊(アーケード)となっていたが、5~10年後には、この空間がショーウィンドウとして利用されるようになり、のちの『銀ぶら』にもつながる、散策しながらショッピングを楽しむ街へ発展するきっかけとなった。撮影時点ではまだガス灯は設置されていない。【画像は1874(明治7)年】

「銀座通り」には1874(明治7)年12月にガス灯が設置された。写真の撮影年は不明であるが、ガス灯があり、「東京馬車鉄道」が通っていないことから、1874(明治7)年から1882(明治15)年の間の撮影と思われる。1882(明治15)年には国内最初の電気街灯(アーク灯)も銀座二丁目に設置されている。この写真では既にアーケード部分をショーウィンドウとして利用している様子が見られる。写真は現在の「銀座六丁目交差点」から「銀座五丁目交差点」方面が撮影されており、写真左側の煉瓦街の建物の並びの中で、少し高い建物が、前述の「恵比寿屋」または「日報社」となる。
MAP __【画像は明治初期】

現在の「銀座六丁目交差点」から「銀座五丁目交差点」方面を撮影した写真。「恵比寿屋」「日報社」があった場所は、現在は「イグジットメルサ」となっている。

錦絵は1882(明治15)年に描かれた銀座の様子。煉瓦街は完成当初は空家も多かったが、この頃には商店や会社が軒を連ねるようになった。この年に開業した「東京馬車鉄道」(新橋~日本橋間)も描かれている。図の左には「京橋」と「竹河岸」が見える。
MAP __【図は1882(明治15)年】

写真は明治30年代中頃の「銀座通り」。まだ鉄道馬車が走っているので、1903(明治36)年以前の撮影。電柱・電線の整備も進んだことがわかる。写真右手に見える「京屋時計店銀座支店」の時計塔は1876(明治9)年に設置されていたが、1913(大正2)年に店舗と共に取り壊された。その3軒奥に見える赤く塗られた店舗が「岩谷商会」。薩摩出身の岩谷松平(いわやまつへい)は、1878(明治11)年、煉瓦街に薩摩絣など薩摩の特産品を扱う「薩摩屋」を開店、その後、西洋からもたらされた紙巻きたばこの製造販売も始め「岩谷商会」と改称、1884(明治17)年頃に国産紙巻きたばこの「天狗煙草」を発売し大成功を収め、岩谷は自ら『東洋煙草大王』とも名乗った。【画像は明治30年代中頃】

岩谷は1901(明治34)年の長者番付では最上位となるが、1904(明治37)年のたばこの専売制施行後に廃業し、現在の渋谷区に屋敷を建て、養豚業などを行いながら多くの家族とともに過ごした。子どもは正妻・愛人の間に53人いたという。現在は「岩谷商会」は「松屋銀座」の敷地の一部(写真中央付近)、「京屋時計店」の時計塔があった場所は写真右手のビルのあたりとなる。
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明治期における洋食文化の中心「築地精養軒」 MAP __

「明治維新」以降、東京には本格的な西洋料理店が少なく、外国要人をもてなす施設が不足していたことから、当時の右大臣・岩倉具視らの支援により、1872(明治5)年、馬場先門に西洋料理店が開業となった。しかし、その当日に「銀座大火」が発生し全焼、同年、木挽町に仮店舗を再建。翌年、采女(うねめ)町(写真の場所)に移転し「築地精養軒」として本格開業した。1876(明治9)年には「上野公園」の開設とともに支店「上野精養軒」も開業している。「精養軒」は明治期における洋食文化の中心となり、多くの料理人も輩出した。写真は1911(明治44)年頃の撮影。この建物は1909(明治42)年にオープンした新館で、旧建物を取り壊して建てられた。【画像は1911(明治44)年頃】

「築地精養軒」は1923(大正12)年の「関東大震災」で全焼、「上野精養軒」が本店となり現在に至っている。かつて「築地精養軒」があった場所は、1960(昭和35)年に「東急グループ」初となるホテル「銀座東急ホテル」が開業(2001(平成13)年に営業終了)、2003(平成15)年からは「時事通信社」となっている。手前の橋は「築地川」に架かる「采女橋」で、江戸時代の架橋当初は「二之橋」と呼ばれていた。「築地川」は1960(昭和35)年に埋立てられ、1962(昭和37)年に「首都高速都心環状線」が開通した。

写真は「築地精養軒」の新館の建設中の様子。1909(明治42)年に完成しているため、それより少し前の撮影となる。森鴎外は、1910(明治43)年に発表した『普請中』という短編小説の中で、普請中(建設中)の「築地精養軒」の様子を、近代国家の完成に至っていない日本と重ね合わせて描いている。【画像は1909(明治42)年頃】

明治末期から大正初期頃の「銀座通り」

写真は大正初期に撮影された「銀座通り」。手前の橋は「新橋」、左の時計塔のある建物が「帝国博品館勧工場」、中央奥の大きな建物が「天下堂」。右端に「恵比壽ビヤホール」が見える。「帝国博品館勧工場」は1899(明治32)年、この地に創業、「日本一の商品陳列館」と謳うまでになったというが、1930(昭和5)年に廃業。「天下堂」は1909(明治42)年の開業で、3階建て(5階建て説もあり)の大きな建物であった。「デパートメントストーア」を名乗っていたが、安売りを標榜する商店で、1918(大正7)年に閉店。「帝国博品館勧工場」と「天下堂」の間に建つビルは果物店の「新橋千疋屋」。1894(明治27)年に日本橋の本店から暖簾分けされ銀座に出店。1913(大正2)年に社屋を新築、日本初の「フルーツパーラー」を設けた。壁には「アイスクリーム 果物ホール」の文字が描かれている。「恵比壽ビヤホール」は1899(明治32)年に日本初のビヤホールとしてこの地に開店している。 【画像は大正初期】

このあたりは、現在は中央区銀座八丁目となる。「帝国博品館勧工場」があった場所は、戦前はカフェーの「銀座パレス」、戦後はキャバレーの「銀座ハリウッド」などになっていたが、1978(昭和53)年に現在の10階建てビルとなり、玩具店「博品館TOY PARK」として「博品館」の名前が復活した。「新橋千疋屋」は1923(大正12)年に「銀座千疋屋」に改称、戦後に銀座五丁目にも出店。1999(平成11)年、本店は銀座五丁目の店舗へ移転・統合された。「関東大震災」後の1924(大正13)年から天ぷら店「銀座天國(てんくに)」となっていたが2020(令和2)年に移転している。
MAP __(撮影地点)

写真は明治後期から大正初期の撮影。左の建物は1895(明治28)年よりこの地で営業してきた「服部時計店」。この建物は「朝野新聞社」が1876(明治9)年より使用していたが、1893(明治26)年に廃業となった。建物は「服部時計店」の創業者・服部金太郎が買い取り、1894(明治27)年に増改築し時計塔を設置、翌年、新店舗として営業を開始した。右の望楼がある洋館は「中央新聞社」を買収して1905(明治38)年に開店した高級洋服店の「山崎高等洋服店」。電車は「東京馬車鉄道」が1903(明治36)年に「東京電車鉄道」と社名を改称、馬車鉄道を路面電車としたもの。1906(明治39)年に「東京市街鉄道」「東京電気鉄道」と合併し、「東京鉄道」となり、1911(明治44)年に東京市が買収、「東京市電」となった。
MAP __(撮影地点)【画像は明治後期から大正初期】

官公庁もあった銀座界隈

「農商務省」は、農林水産業・商業・工業を所管する省として、1881(明治14)年に設置された。当初は大手町に庁舎があったが、1891(明治24)年に木挽町(現・銀座六丁目、「築地精養軒」の向かい)にフランス古典様式といわれる西洋建築の新庁舎が完成、移転した。写真は完成間もない1893(明治26)年頃の撮影。この建物は「関東大震災」で罹災し、「農商務省」は大手町などの仮庁舎へ移転。1925(大正14)年に「農林省」(現「農林水産省」)と「商工省」(現「経済産業省」)に分割され、ここには「商工省」が1943(昭和18)年まで置かれた。この場所は、江戸時代には「棚倉藩」の上屋敷があり、その後、1876(明治9)年には前年に設立された「商法講習所」(「一橋大学」の前身)が新築・移転してきており、神田一ツ橋に再移転する1885(明治18)年まで使用されていた所でもある。
MAP __【画像は1893(明治26)年頃】

「商工省」があった場所には、1968(昭和43)年に「日産自動車」の銀座本社が誕生、2009(平成21)年に横浜に移転するまで使用された。現在はリノベーションされてオフィスビルの「銀座6丁目-SQUARE」となっている。手前の橋は「采女橋」で、震災復興時に架け替えられている(1930(昭和5)年竣工)。「築地川」は1962(昭和37)年に「首都高速都心環状線」となったが、「采女橋」は震災復興当時のものが現在も使用されている。


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