図は「横浜港」の開港間もない1861(文久元)年頃に描かれた『再改横浜風景』。開港当初、「開港場」は山手方面と地続きであったが、外国人との紛争を恐れ、1860(万延元)年に「中村川」を延長して「堀川」(図左の水路)を開削。「横浜港」一帯は海と掘割に囲まれた島状となり、出入口の橋付近には関所が設置された。その関所の内側が「関内」、外側が「関外」と呼ばれるようになった。また、漁村であった横濱村の住民は、1860(安政7)年に横濱元村(「堀川」の南東(図では左)、同年、元町へ改称)へ移住させられた。
江戸幕府は、幕末の1858(安政5)年、アメリカとの「日米修好通商条約」をはじめ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと修好通商条約(通称「安政五カ国条約」)を結んだ。この中で、箱館(函館)、兵庫、神奈川、長崎、新潟の五港の開港が取り決められた。しかし「神奈川宿」にある「神奈川湊」は通行の多い「東海道」沿いであったため、幕府は「神奈川在横浜」(横浜は神奈川の一部である)と詭弁し、街道から外れた横浜を「開港場」とした。諸外国は条約と異なると反対したが、幕府は築港を進め、翌1859(安政6)年に「横浜港」を開港。外国側は当初、領事館を「神奈川宿」に置いたが、「横浜港」が居留地として発展すると「神奈川湊」は衰退し、「横浜港」開港は既成事実として受け入れられるようになった。