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国内最大の国際貿易港へ

「横浜港」は開港すると、急速な勢いで発展し、貿易額は明治を迎えるまで全国の7~8割を占めるなど、国内最大の貿易港となった。その背景には、当時、日本の政治の中心で、かつ世界有数の大都市であった江戸の最寄りの港であったこと、また、輸出産品の中心となった生糸・綿織物・茶の産地が近かったことが挙げられる。当初は、国際貿易の知識や経験に長けた、居留地の外国商社が貿易の主導権を握っていたが、徐々に日本の商人も貿易について学び、成長していった。


外国為替・貿易金融の専門銀行として開設された「横浜正金銀行」 MAP __

「横浜正金銀行」は、1879(明治12)年、国立銀行条例に基づき設立された外国為替・貿易金融の専門銀行。現金(正金)で貿易決済を行なうことで、日本人貿易商の不利益を軽減することを目的としていた。1887(明治20)年に「横浜正金銀行条例」が発布され、特殊銀行としての性格が明確になった。写真は1904(明治37)年に竣工した「横浜正金銀行」の本店。設計は建築家の妻木頼黄(よりなか)で、ドイツルネサンス様式が採り入れられ、八角形ドームが特徴となっている。【画像は明治後期~大正前期】

1923(大正12)年の「関東大震災」では、建物は倒壊しなかったものの、火災でドーム部分を焼失。1925(大正14)年に復旧されたが、写真のように、ドーム部分は再現されなかった。「横浜正金銀行」は終戦後の1946(昭和21)年、「GHQ」の指令により解体されることになり、業務は「東京銀行」(現「三菱UFJ銀行」)に引き継がれ、本店の建物も「東京銀行 横浜支店」として使用された。【画像は1930(昭和5)年頃】

この建物と土地は、1964(昭和39)年に神奈川県が買収、ドームの復元が行われ、1967(昭和42)年に「神奈川県立博物館」として開館した。建物は「旧横浜正金銀行本店本館」として1967(昭和42)年に国の重要文化財に指定された。1995(平成7)年に「神奈川県立歴史博物館」となり現在に至る。

生糸取引で有名だった「バヴィエル商会」

横浜の開港以降、日本の重要な輸出品となった生糸。日本人の生糸売込問屋が群馬や長野など国内産地から集めてきた商品を、居留地内に商館を構える外国商人が買い取って輸出していた。図は1886(明治19)年発行の「日本絵入商人録」に掲載されたもので、外国商人のなかでも生糸取引の業績でトップを争っていた「バヴィエル商会」の商館の様子。「バヴィエル商会」は1865(慶応元)年、エドゥアール・バヴィエルにより設立されたスイス系の商社で、フランスを輸出先としており、得意先にはパリの老舗「エルメス社」もあった。「関東大震災」を機にバヴィエルは帰国、その後はフランス系の「オドワイエ商会」に引き継がれ、1980年代まで続いていたという。

「横浜開港五十年史」には、「バヴィエル商会」など外国商人と日本商人との間で取引上のトラブルがあったことが記述されている。グラハム・ベルは1876(明治9)年にアメリカ・ボストンで電話を発明、翌1877(明治10)年に「ベル電話会社」(「AT&T」の前身)を設立するが、「バヴィエル商会」はその日本代理店も務め、同年「工部省」が「バヴィエル商会」を通して輸入・購入し、通話実験に成功している。写真左は「日本絵入商人録」掲載当時の「バヴィエル商会」の住所である、居留地七十六番(現・中区山下町76番地)付近に建つ「ローズホテル横浜」。
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1896(明治29)年に設置された「横浜生糸検査所」

政府は生糸の品質管理を徹底するため、1895(明治28)年に「生糸検査所法」を公布。翌年には横浜・関内の本町一丁目1番地に「横浜生糸検査所」を設置。以来、人々の間で「キーケン」の名で親しまれた。明治後期頃には隣接する日本大通9番地に拡張されている。その後、関東大震災で被害を受け、1926(大正15)年、「横浜地方裁判所」と敷地を交換する形で、北仲通五丁目に移転した。写真は移転・新築後の「横浜生糸検査所」。設計は日本の鉄筋コンクリート建築の祖とされる遠藤於菟(おと)。
MAP __(日本大通9番地)【画像は昭和初期】

「横浜生糸検査所」は1980(昭和55)年に「農林規格検査所」に統合、1991(平成3)年に「農林水産消費技術センター」に改組、1999(平成11)年に独立行政法人となった。写真は「横浜生糸検査所」の建物を引き継ぐ「横浜第2合同庁舎」。1995(平成7)年に建物の大改築(外観デザインを踏襲した解体修復)と、高層棟の建設が行われた。現在は「横浜生糸検査所」の歴史を引き継ぐ「独立行政法人農林水産消費技術センター 横浜事務所」をはじめ、各省庁が入居している。ここは、1866(慶応2)年から1875(明治8)年頃までの間は「フランス公使館」が置かれていた場所でもあった。
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成功した横浜商人の象徴「三溪園」

横浜が開港すると、生糸は輸出品の中心となり、関東や甲信地方の養蚕地を出身とする商人も集まるようになった。この中で、特に成功した商人の一人が原善三郎であった。

大正前期の「三溪園」

写真は「燈明寺 三重塔」の移築後となる、大正前期撮影の「三溪園」。
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【画像は大正前期】

江戸後期、武蔵国渡瀬村(現・埼玉県児玉郡神川町)の裕福な農家に生まれた原善三郎は、1862(文久2)年、開港間もない横浜の弁天通三丁目に生糸の売込商「亀屋」を創業。数年で横浜一の生糸売込商へ成長し、1874(明治7)年には「第二国立銀行」(「横浜銀行」の前身)を設立し初代頭取に、1892(明治25)年からは衆議院議員も務めるなど、横浜の政財界で活躍した。1868(明治元)年頃に、本牧・三之谷の土地約5万3千坪を購入、明治20年代に別荘「松風閣」を建てている。

岐阜県出身の教師、青木富太郎は、1892(明治25)年、教え子であった善三郎の孫娘と結婚して原家に入り原富太郎となった。1902(明治35)年からは「富岡製糸場」も経営(1938(昭和13)年まで)するなど、家業を更に発展させている。「関東大震災」後は、私財を投じ、また「横浜市復興会」の会長も務めて横浜の復興を牽引した。

富太郎は、善三郎の死後となる1902(明治35)年、本牧・三之谷の原家の別荘があった土地に、本宅となる「鶴翔閣」を建て、1905(明治38)年に本格的に庭園の造成に着手、同年には「旧天瑞寺寿塔覆堂」を敷地内に移築した。富太郎はこのころより雅号で「原三溪」(「三溪」は地名の三之谷にちなむ)を名乗るようになり、庭園も「三溪園」と呼ぶようになったといわれる。翌1906(明治39)年から、現在の外苑部分が「三溪園」として無料で一般公開されるようになり、その後も、1914(大正3)年の京都の「燈明寺 三重塔」をはじめ、多くの歴史的な建造物が庭園内へ移築されるなど、整備が進められた。

現在の「三溪園」

写真は現在の「三溪園」。

「三溪園」は、「関東大震災」で一部の建物を損壊し、さらに「太平洋戦争」の空襲で大きな被害を受けた。戦後の1953(昭和28)年、横浜市は原家より、庭園の大部分の寄贈を受け復旧工事に着手。翌1954(昭和29)年に外苑の公開が始まり、1958(昭和33)年には初めて内苑部分が一般公開された。2007(平成19)年には、国の名勝に指定、現在も市民をはじめ、国内外の観光客にも親しまれる庭園となっている。



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