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宿場町「内藤新宿」の誕生


「甲州街道」の宿場町として「内藤新宿」が開かれる MAP __

徳川家康が整備を始め、幕府直轄で管理された「五街道」。その中の一つ、江戸から下諏訪を結ぶ「甲州街道」は1602(慶長7)年に開設された。当初、起点となる「日本橋」から最初の宿場(第一宿)は約4里となる「高井戸宿」であったが、ほかの街道の第一宿(「品川宿」「板橋宿」「千住宿」)は約2里の距離にあったことから、1698(元禄11)年に「日本橋」と「高井戸宿」の間に新しい宿場として「内藤新宿」が設けられた。新しい宿場であったことが、現在の「新宿」の地名の由来となっている。写真は「新宿歴史博物館」で展示されている「内藤新宿復元模型」。

「内藤新宿」は現在の「新宿通り」沿いにあった。写真はかつての宿場町の西端付近、「甲州街道」と「青梅街道」の追分(分岐点)にあたる「新宿三丁目交差点」。直進方向が「青梅街道」で、「甲州街道」はここで左折していた。

物資の輸送で活況を呈した「内藤新宿」 MAP __

「内藤新宿」の宿場町が形成されていたのは、「四谷大木戸」(現「四谷四丁目交差点」)から「追分」(現「伊勢丹 新宿店」前)の周辺までであった。その光景を、浮世絵師・歌川広重が「名所江戸百景」の一枚『四ツ谷内藤新宿』に描いている。馬に乗せられ、甲州、信州をはじめ多摩・秩父地域から、鉱物や農産物が江戸に運ばれた。「甲州街道」は他の「五街道」と比較すれば交通量は少なかったというが、浮世絵の描写を見ると多くの牛馬が行き交い、物流の拠点として活況を呈していた様子がうかがえる。【画像は1857(安政4)年】

現在の新宿一丁目周辺。かつて宿場町として賑わった「内藤新宿」の中心地は、オフィス街へと様変わりした。

内藤家の屋敷地が、宿場町に変貌

宿場町が開かれる前のこの地には、信州高遠藩主の内藤家や、江戸幕府旗本の朝倉家の屋敷地が並んでいた。内藤家が幕府に返上した屋敷地の一部に新しく宿場町が造られため「内藤新宿」と呼ばれるようになった。宿場は「上町」「仲町」「下町」に分けられており、「太宗寺」などの現存する寺社も見て取れる。左端には「十二社(じゅうにそう)池」も描かれている。図内に青線で囲った、成瀬隼人正とある武家屋敷のあたりが現在の「新宿駅」の東口付近、秋元但馬守とある武家屋敷のあたりが現在の「東京都庁舎」付近となる。【図は1849~1862(嘉永2~文久2)年】

「内藤新宿」の賑わいの中心「太宗寺」 MAP __

現在、新宿二丁目にある浄土宗寺院「太宗寺」は、1668(寛文8)年に信州高遠藩主・内藤正勝の長男・重頼から土地の寄進を受けて創建され、内藤家の菩提寺として繁栄した。江戸の街の出入口を示すために6ヶ所に造立された「江戸六地蔵」の3番目の像のほか、江戸の人々に信仰された閻魔像も安置されている。「内藤新宿」の栄えた当時は、参道や境内に仲見世もできるなど、宿場の賑わいの中心地でもあったという。この錦絵は、江戸時代に話題となった閻魔像の目が取られた事件を描いたもの。【図は1847(弘化4)年】

現在も境内に鎮座する「銅造地蔵菩薩坐像」。閻魔像の安置される「閻魔堂」は、7月15・16日に御開扉される。


浅草町人により開かれた計画的な賑わいの地

「内藤新宿」誕生を語る上で、高松喜六の名前を外すことはできないだろう。浅草の阿部川町(現在の「上野駅」の東側)の名主だった喜六を中心とした浅草の町人たちは、現在の新宿の地に、新たな宿場町の開設を計画した。喜六は幕府に対し、宿場開設にあたり上納金五千六百両を納め、街を整備する費用の負担を申し出た。

喜六を開発に駆り立てた動機は何だったのだろうか。江戸時代は街道の交通量が増加し、宿場町の需要が高まった。また、「日光街道」の「千住宿」などは「日光東照宮」への参拝客のほか、日帰りで行ける行楽地・繁華街として江戸の住民で賑わいを見せていたという。そのような光景を目の当たりにした喜六は、宿場町の開設によって新たに繁華街を造り出せば、大きな利益を生み出せると考えたに違いない。

幕府の許可を得た喜六たちの手により、信州高遠藩主の内藤家、旗本の朝倉家の屋敷地の一部は姿を変え、「品川宿」「板橋宿」「千住宿」とともに、のちに「江戸四宿」と呼ばれる「内藤新宿」の宿場町が整った。

「愛染院」(現・新宿区若葉二丁目)にある喜六の墓は、1984(昭和59)年に新宿区の史跡に指定されている。新宿発展の礎を築いた人物として、これからも顕彰されていくことだろう。



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