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鉄道開通と沿線の発展

世田谷は江戸時代以降、大都市江戸・東京近郊の農業地域として発達してきたが、明治末期以降の私鉄の開通や、大正期の「関東大震災」をきっかけに移住してくる人も増え、郊外の住宅地としても発展していく。


玉電支線と小田急の開通で発展 MAP __

1907(明治40)年、玉川電気鉄道(東急の前身となる会社の一つ)により渋谷~玉川(現・二子玉川)間の鉄道(のちの東急玉川線、愛称は「玉電」)が開通。そのルートは現在の東急田園都市線とほぼ同じであった。1913(大正2)年には、京王電気軌道(現・京王線)の笹塚・調布間も開業。その間に位置する世田谷地域の発展のため、大場家の大場信続氏が中心となり玉川電気鉄道と交渉を重ね、鉄道敷地の無償提供など私財も投じ、1925(大正14)年に支線(下高井戸線、現・東急世田谷線)が開業した。1927(昭和2)年には小田原急行鉄道(現・小田急小田原線)も開業、世田谷地域では土地区画整理も行われるなど、沿線は住宅地としても発展していった。写真は1961(昭和36)年の「玉電山下駅」(現「山下駅」)付近の下高井戸線車両で、上が小田急小田原線の線路。【画像は1961(昭和36)年】

1969(昭和44)年に「玉電」の本線部分は廃止されたが、支線部分は東急世田谷線として存続し、現在に至るまで世田谷地域の住民の重要な交通手段となっている。車両は、2001(平成13)年に古写真の「80系」などの旧車両から現代写真の「300系」に置き換えが完了した。2004(平成16)年には小田急小田原線(世田谷地区)の複々線化工事が完了している。

大正期から引き継がれる医療・福祉の拠点 MAP __

青山脳病院」は、医師・斎藤紀一が1903(明治36)年、赤坂区青山南町五丁目(現・港区南青山四丁目)に開院。1924(大正13)年に火災で焼失、1926(大正15)年に松沢村(現・世田谷区)松原に移転してきた(写真)。1927(昭和2)年の4月に養子で歌人としても有名な医師・斎藤茂吉が院長となり、5月に斎藤茂吉の次男(後の北杜夫)が誕生、7月には斎藤茂吉の患者であった芥川龍之介が自ら命を絶っているなど、文人との所縁も深い。【画像は大正末期~昭和初期】

「青山脳病院」は、「太平洋戦争」末期の1945(昭和20)年に東京都へ譲渡され「東京都立松沢病院 梅ヶ丘分院」となり、1952(昭和27)年に「東京都立梅ヶ丘病院」(写真)となった。1961(昭和36)年当時の建物や門柱の形状は、「青山脳病院」時代からほとんど変わっていないように見える。【画像は1961(昭和36)年】

「東京都立梅ヶ丘病院」は小児専門の病院として高度な医療を提供してきたが、2010(平成22)年、府中市に誕生した「東京都立小児総合医療センター」に統合され閉院。跡地は世田谷区の保健医療福祉の拠点として整備が進められた。愛称は公募により「うめとぴあ」となり、2019(平成31)年に民間施設棟「東京リハビリテーションセンター世田谷」(写真右)が、翌2020(令和2)年に「世田谷区立保健医療福祉総合プラザ」(写真左)が開設された。

馬術訓練などを目的として開苑した「馬事公苑」 MAP __

「馬事公苑」は、1940(昭和15)年に「日本競馬会」(現「日本中央競馬会(JRA)」の前身)が、馬術訓練、馬術競技会の開催などを目的として開苑した。建設に当たっては、「昔からなる武蔵野の面影を残したい」という関係者の思いから、木は1本も切られることなく移植された。その作業は、隣接地にあった「東京農業大学 用賀農場」の農場長及び学生の協力で行われた。開苑当初から競馬の騎手養成も行い、1982(昭和57)年、千葉県白井町(現・白井市)に「日本中央競馬会 競馬学校」が開設されるまで、その役割を担っていた。写真は開苑当初(昭和初期)の頃のもの。【画像は昭和初期】

「馬事公苑」では各種の馬術競技会が行われてきたほか、一部区域を除き一般に公開され、「馬のいる公園」として長年親しまれてきた。「日中戦争」により幻となった、1940(昭和15)年の「第十二回オリンピック東京大會」では、馬術競技の会場となる構想もあった。1964(昭和39)年の「東京オリンピック」では馬場馬術競技会場となっている。写真は2016(平成28)年、当時の「グラスアリーナ」から「走路」方面を撮影したもの。【画像は2016(平成28)年】

2017(平成29)年より施設整備工事のため休苑し、2021(令和3)年の「東京2020オリンピック・パラリンピック」では馬術競技会場として使用されたのち、2023(令和5)年にリニューアルオープンとなった。写真は現在の「馬事公苑」で、「はらっぱ広場」からメインオフィス方面を撮影したもの。


戦前期までの世田谷の特色

江戸・明治時代を通じて、世田谷一帯は江戸・東京近郊の農村であった。大部分が台地上で畑が多く、大根・ナスをはじめとする野菜の供給地となっていた。

明治末期以降、世田谷に玉川電気鉄道(玉電)、小田原急行鉄道(現・小田急小田原線)など私鉄が開通すると、交通利便性が向上し、特に「関東大震災」後には移住してくる人も増え、大規模な土地区画整理も行われるようになるなど、郊外の住宅地として発展した。農業においては、全国的に交通網の整備が進んだ結果、都心近郊という距離的な優位性は失われ、農地の宅地化が進んだほか、促成栽培など新しい技術の導入や乳牛飼育、養鶏、園芸への転換も見られた。

1932(昭和7)年、東京市が拡大(いわゆる「大東京市」)となり、それまでの15区に、周辺の5郡82町村が編入、20区が新設となり、計35区となった。荏原郡の北部においては、世田ヶ谷町を中心に4町村が合併、世田谷区が誕生。この4年後に北多摩郡から砧村と千歳村が編入となり、現在の区域がほぼ形成された。

私鉄の開通と住宅地化により商業も発展し始め、駅前に商店が誕生、下北沢や経堂、祖師ヶ谷大蔵などでは商店街も形成されるようになった。1941(昭和16)年当時、世田谷区内には個人商店が約2,600軒あり、その約半数が「飲食料品」、約500軒が「衣料品身廻品」の店であるなど、周辺の住民の食品・日用品のための店舗がほとんどで、それ以外の買い物は渋谷や新宿に出ることが多かった。工業はあまり発展せず、1935(昭和10)年当時、工場数は新市域の20区中少ない方から3番目で、規模も小さいものが多かった。

この時期、広大・閑静な土地を求めて、学校や研究所、病院、陸軍施設など多くの施設が新設や移転してきた。本文内で取り上げているもの以外の例としては、学校では、「成徳女子商業学校」(現「下北沢成徳高等学校」)が1927(昭和2)年設立、「鴎友学園」が1935(昭和10)年設立、研究所では「日本労働科学研究所」(現「大原記念労働科学研究所」)が1939(昭和14)年に祖師谷へ移転してきたことなどが挙げられる。


「世田谷区役所」の歴史 MAP __(発足当初の場所)MAP __(現在の区役所)

1932(昭和7)年の世田谷区の発足当初、「世田谷区役所」は若林町にあった旧「世田谷町役場」の庁舎が使用された。【画像は昭和初期】

跡地は図書館、工場、スーパーマーケットなどを経て、現在は家電量販店(写真中央)となっている。写真右は「環七通り」。戦前の震災復興時に計画された道路で、1964(昭和39)年の「東京オリンピック」に合わせ建設が進められた。

その後、1938(昭和13)年に現在の「世田谷区役所 第一庁舎」の場所に新たな庁舎が着工となり翌年に完成した。写真はこの頃、昭和戦前期の「世田谷区役所」で、北側に正面玄関があった。しかしこの庁舎は1945(昭和20)年の空襲で全焼。以降、戦後もしばらく「世田谷小学校」と「桜小学校」に仮庁舎が置かれ、1947(昭和22)年、改めて現在地に庁舎が着工となり翌年に完成した。【画像は昭和戦前期】

写真は2021(令和3)年撮影の「世田谷区役所 第一庁舎」。1957(昭和32)年にコンペにより前川國男氏の案が一等に選ばれ、1960(昭和35)年に竣工となった。【画像は2021(令和3)年】

「世田谷区役所」は2021(令和3)年より建て替え工事が進められており、2029年に全体竣工の予定となっている。写真は西側から撮影した「世田谷区役所 第一庁舎」で、右奥が2024(令和6)年竣工の「1期工事」部分となる。


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