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岡山の繊維業と大原孫三郎氏

明治時代に発展した岡山の繊維業。その中心となったのが大原家により設立された「倉敷紡績(クラボウ)」であった。二代目社長の大原孫三郎氏は社会事業を推進した篤志家としても知られる。児島では学生服の製造が盛んであったが、そのうちのひとつ「マルオ被服」(現「株式会社ビッグジョン」)は、「クラボウ」とともに国内初のジーンズの開発に成功、一帯はジーンズの街としても発展してゆく。


倉敷の発展を支えた「倉敷紡績」 1888(明治21)年に創業 MAP __

「倉敷紡績(クラボウ)」は1888(明治21)年、当時の倉敷村の大地主だった大原孝四郎氏が社長となり、創設された「倉敷紡績所」に始まる。翌年には、江戸時代の代官所跡に「倉敷本社工場」が竣工し、1893(明治26)年に「倉敷紡績株式会社」と改称した。【画像は明治期】

「クラボウ」の「倉敷本社工場」の跡地は1973(昭和48)年に「倉敷アイビースクエア」となった。ホテル、レストラン、ショップなどがあり、宿泊客のほか、多くの観光客も訪れる。赤レンガの外壁を覆う蔦は、工場だった時代に内部の温度調節のために植えられたもので、「アイビースクエア」の名前の由来となっている。

写真はかつての「原綿倉庫」を活用し1969(昭和44)年に開館した「倉紡記念館」。「クラボウ」の歴史が写真・模型などで展示されている。当初は社員教育を目的としたものであったが、1971(昭和46)年より一般公開を開始している。

孝四郎氏は「満は損を招き、謙は益を受く」という謙受を社訓とし「二・三のマーク」を社章とした。1906(明治39)年、孝四郎氏の三男、大原孫三郎氏が二代目社長となり、会社と倉敷の街を大きく発展させた。三頭の馬をデザインした「三馬(みつうま)」は、当時海外への輸出時に使用した登録商標。【画像は明治期】

国産初のジーンズを開発した「ビッグジョン」 MAP __

1940(昭和15)年に尾崎小太郎氏が児島に創業した、学生服・作業服などを縫製する「マルオ被服」(現「株式会社ビッグジョン」)。戦後は、アメリカ製の中古衣料の販売を始め、1965(昭和40)年からジーンズの生産を開始。1967(昭和42)年には「ビッグジョン」ブランドを立ち上げ、「クラボウ」が開発した「KD-8」を使用し、1973(昭和48)年には「純国産ジーンズ」の生産を始めた。写真は昭和40年代の社屋。【画像は昭和40年代】

写真は昭和40年代の児島の街を走る「マルオ被服」の広告を付けたバス。【画像は昭和40年代】

「クラボウ」の「KD-8」を使用した国内初の純国産ジーンズ 「M1002 ALL JAPAN MADE」。

友情と、社会への意義を願い開館した「大原美術館」 MAP __

「倉敷紡績」の二代目社長である大原孫三郎氏は、親友の洋画家・児島虎次郎氏から申し出を受け、美術作品の収集活動を決意。児島氏が滞欧中に収集したモネの『睡蓮』、エル・グレコの『受胎告知』などの絵画を、倉敷市内の小中学校を会場として公開してきた。1929(昭和4)年に児島氏が47歳の若さで死去すると、彼が収集・制作した作品を公開するために1930(昭和5)年「大原美術館」を開館した。写真は1950(昭和25)年、開館20周年記念行事のもの。【画像は1950(昭和25)年】

現在の様子。「倉敷美観地区」の一角に位置している。本館は開館当時と同じ姿であり、分館や工芸館なども加わっている。


「倉敷紡績」二代目社長、大原孫三郎氏の社会貢献

「クラボウ」二代目社長 大原孫三郎氏

「クラボウ」二代目社長 大原孫三郎氏

「倉敷紡績(クラボウ)」二代目社長の大原孫三郎氏。「倉敷絹織」(現「クラレ」)、「第一合同銀行」(「中国銀行」の前身)などの社長も務めた実業家として有名な存在である一方、社会事業家としても知られている。

孫三郎氏は倉敷の大地主、大原家の三男として、1880(明治13)年に生まれた。1897(明治30)年に上京、遊学生活を送っていたが、父の大原孝四郎氏によって郷里へ連れ戻され謹慎を言い渡された。そして慈善事業家、石井十次氏に出会い感銘を受け、社会事業に目覚めた。孫三郎氏は十次氏が運営する「岡山孤児院」に多大な援助を行っていく。
MAP __(岡山孤児院跡地)


石井十次氏が創設し、孫三郎氏が支えた「岡山孤児院」

石井十次氏が創設し、孫三郎氏が支えた「岡山孤児院」。
【画像は明治後期】

1906(明治39)年に「クラボウ」の社長となった孫三郎氏は、自らの工場従業員の労働条件改善や地域社会の課題解決に取り組み「大原奨農会農業研究所」(現「岡山大学資源植物科学研究所」)、「大原社会問題研究所」(現「法政大学大原社会問題研究所」)、「倉敷労働科学研究所」(現「大原記念労働科学研究所」)、「倉紡中央病院」(現「倉敷中央病院」)など様々な社会事業を推進した。現在は倉敷を代表する観光スポットになっている「大原美術館」も『広く社会に意義あること』『今を生きる人々にとって意義あること』を願って開館したものであった。

『儂の眼には十年先が見える』が口癖であった孫三郎氏。奉仕の精神は現在に至るまで息づいている。



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