写真は昭和初期に空撮された成城の街。右上の白い建物群が「成城学園」の校舎で、右下に小田急の線路が見える。中央に写っている住宅群は、1929(昭和4)年に「朝日新聞社」が主催した「朝日住宅展覧会」で展示・分譲されたもの。
【画像は昭和初期】
牛込区(現・新宿区)にあった旧制「成城中学校」(現「成城中学校・成城高等学校」)の当時の校長、澤柳政太郎氏が1917(大正6)年に付設した小学校が「成城学園」の起源。小学校の主事・小原國芳氏を中心に、新しい教育の舞台として郊外への移転が計画された。1923(大正12)年2月に学園の経営を助けるため、保護者らによって「成城学園後援会」が創設、同年9月の「関東大震災」が契機となり、翌年、後援会内に、経験のある保護者らが中心となり「地所部(不動産部)」が組織され、10万坪の土地の取得・造成が行われた。翌1925(大正14)年、旧制「成城第二中学校」(現「成城学園中学校高等学校」)が移転、「成城玉川小学校」(現「成城学園初等学校」)が開校となった。当時、小田原急行鉄道(現・小田急小田原線)の建設が進行中で、交渉の末、駅設置場所、駅名などが決まり、1927(昭和2)年の開通と同時に「成城学園前駅」が開業した。
学園の建設とともに、周辺の住宅地の造成・分譲が「地所部」を中心に進められた。電気、上下水道、ガス、郵便局、電話局などのライフラインの整備も進み、駅開業の年には「石井食料品店」(現「成城石井」)が開店するなど、駅前には商店も立地するようになった。
当初の分譲は学園の職員・保護者を優先に行われた。子どもが「成城学園」に通っていた、作家・加藤武雄氏、民俗学者・柳田國男氏、思想家・平塚らいてう氏(夫は「成城学園」の教師でもあった)らは1927(昭和2)年に分譲地に移り住んでいる。詩人の北原白秋氏も、子どもの通学のために1936(昭和11)年から4年間暮らしている。大正末期から昭和初期にかけて、東京西郊の武蔵野台地上には、多くの住宅地が開発されていくが、学園が主体的に行った例は珍しく、他には「自由学園」の「南澤学園町」(現・東久留米市)、のちに小原氏が同様の手法で開いた「玉川学園」(現・町田市)を見る程度となっている。「成城学園」の教育理念実現のため、移住までして支えた保護者らが初期の住民となったことは、その後の成城の街の文化的発展にも大きく寄与したと考えられる。