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幕府と町人による町づくり

太閤・豊臣秀吉が城と町を創った大坂は、江戸時代に幕府の直轄領となり、さらなる発展を遂げる。特に「大坂城」の西側に開かれた町人地は、砂堆の埋め立てなどを繰り返し、「大坂湾」の方向へ広がっていった。町人町の中心地となったのは「船場」で、長く大坂商人の活動の場となった。大坂の「八百八橋」を代表する「心斎橋」などは、この時期に架橋された。


「大坂城」の西側に、町人の町「船場」が誕生 MAP __

東西南北を「東横堀川」「西横堀川」「長堀川」「大川」に囲まれた「船場」は、天下の商業を左右した大坂の町人たちが活躍する中心地であった。「大坂城」の築城後、急速に城下の整備が進められると、船宿、料亭、両替商、呉服店、金物店などが次々に誕生。「大川」などの水運を利用できた船場には、全国から物資が集まり、商業の中心地となった。明治期以降には、有力な問屋の中から今日の総合商社や大手製薬・飲食料品メーカーへと発展する企業が相次いだ。写真は1929(昭和4)年の「北久太郎町通」で奥が「心斎橋筋」との交差点。右の時計塔「北出時計店」は「心斎橋筋」沿いにあった。このあたりは各地の特産品を扱う卸売街として賑わっていた。【画像は1929(昭和4)年】

「北久太郎町通」とその北に並行していた「唐物町通」およびその間の街区は「中央大通」の道路用地となり、この区間は「日本万国博覧会」の関連道路事業として1970(昭和45)年に完成した。「北久太郎町通」は西行きの道路部分で、かつて「北出時計店」などがあった右手の街区には「阪神高速道路」のほか、高架下に「船場センタービル」(写真右)が建設され、この街区にあった店舗や繊維を中心とする卸問屋などが入居した。「船場センタービル」は1号館~10号館、全長約1kmの長さを誇り、現在は約800の店舗・事務所が入居している。

「長堀川」の「心斎橋」から、「心斎橋筋」が発達 MAP __

船場と島之内の境となる「長堀川」に架けられた「心斎橋」は、1622(元和8)年、「長堀川」を開削した4人のうちのひとり、岡田心斎が架橋したとされる。この橋を通る南北の通りが「心斎橋筋」となり、南側の島之内では地名にも採用され、大阪を代表する繁華街に発展した。この地には大正時代に百貨店の「大丸」「そごう」が誕生し、1933(昭和8)年には日本初の市営地下鉄である御堂筋線の「心斎橋駅」も開業した。橋は、1873(明治6)年に当時の大阪では珍しい鉄橋となり、1909(明治42)年にゴシック様式の石橋に変わった。しかし、1964(昭和39)年に「長堀川」が埋め立てられ、橋から歩道橋そして横断歩道に姿を変えた。【画像は明治後期】

1997(平成9)年、「長堀通改造計画」により地下のショッピングモール「クリスタ長堀」が誕生する際、地上の中央分離帯などに「心斎橋」の一部が再利用された。

大坂の町人による学問所「懐徳堂」と「適塾」

「旧淀川」に架かる「淀屋橋」の南東にあたる「船場」には、江戸時代に大坂の町の二大学問所である「懐徳堂」と「適塾」があった。1724(享保9)年、豪商たちが出資して誕生した町人のための儒学塾が「懐徳堂」。1726(享保11)年には、将軍・徳川吉宗に公認されて官許学問所となり、「明治維新」後は一旦廃止されるが、「重建懐徳堂」として復活し、蔵書などは「大阪大学」に引き継がれた。【図は1863(文久3)年】

現在、「懐徳堂」の跡地は「日本生命保険 本店本館」となっている。1938(昭和13)年に完成したビルで、一画に「懐徳堂旧阯碑」が建てられている。
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「適塾」は1838(天保9)年、緒方洪庵(肖像画)が津村東之町(現・中央区瓦町三丁目)に開いた蘭学塾。1845(弘化2)年に過書町(現・中央区北浜三丁目)に移転した。大村益次郎、福沢諭吉らが学んだことでも知られる。【肖像画は1901(明治34)年】

建物は現在まで保存され、「緒方洪庵旧宅および塾」として国の重要文化財に指定されている。「適塾」は「大阪大学」の源流の一つであることから、学内の「大阪大学適塾記念センター」が管理・運営している。
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住友グループの起源となった、国内最大の「住友銅吹所」 MAP __

『日本唐土二千年袖鑑』より江戸時代の住友本店

『日本唐土二千年袖鑑』より江戸時代の「住友本店」。【図は江戸末期】

明治中期頃の「住友鰻谷本邸」

明治中期頃の「住友鰻谷本邸」。【画像は明治中期頃】

「住友鰻谷本邸」の跡地

現在、「住友鰻谷本邸」の跡地は「三井住友銀行」の事務センターなどになっている。

「元住友家本邸内ビリヤード場」と「住友銅吹所跡」の石碑

「元住友家本邸内ビリヤード場」と「住友銅吹所跡」の石碑。

船場と並んで、大坂の中心地として栄えた島之内。その北東端に「住友グループ」の起源となる「住友銅吹所」があった。住友の事業は蘇我理右衛門という人物が、京都で銅吹と銅細工の店を開業したことに始まる。「泉屋」の屋号を掲げた理右衛門は外国人から学んだ原理をもとに慶長年間(1596~1615年)に「南蛮吹」といわれる銀銅を吹き分ける術を開発。従来、日本の銅は銀を含んだまま輸出されていたが、この「南蛮吹」は銀の回収を可能にする画期的な技術であった。その後、理右衛門の長男・理兵衛は住友家の婿養子となり、「泉屋」の屋号と銅吹業を引き継いで「泉屋住友家」を興し、住友家二代目として住友友以(とももち)を名乗った。

友以は「南蛮吹」の技術を持って1623(元和9)年頃に京都から現在の大阪の内淡路町へ進出、銅の貿易事業も始めた。1636(寛永13)年には長堀茂左衛門町(現・中央区島之内一丁目)に移転。この場所は、「長堀川」や東西の「横堀川」の舟運を利用できる便利な場所であり、「南蛮吹」の技術が住友から多くの同業者に伝授されたため、大坂は銅精錬業の一大集積地となった。輸出用の銅はすべて大坂でつくられ長崎へと送られていたという。有力な同業者がいる中でも中心的な地位を占めた住友家は、1690(元禄3)年に本拠地を「住友銅吹所」の地に移した。

1876(明治9)年に銅吹所が廃止されるとその後は住友家の本邸(「住友鰻谷本邸」)の洋館となった。1892(明治25)年、邸宅内に建てられた「ビリヤード場」が現存する。その後、住友家は愛媛県の「別子銅山」の経営を基盤に「住友銀行」(現「三井住友銀行」)、「住友倉庫」と次々に新規事業に着手し、財閥へと発展していった。


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