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大塩平八郎ゆかりの地 天満・八軒屋

江戸時代後期に起きた未曾有の災害「天保の大飢饉」。民の飢餓に対して、救援を提言するも容れられなかった「東町奉行所」の元与力・大塩平八郎は、1837(天保8)年、私塾の門人や民衆と共に蜂起した(「大塩平八郎の乱」)。その舞台となったのが大坂の天満。しかし半日で鎮圧され、米蔵から米を奪って民を救うこともならず、兵火から大坂の五分の一を焼く大火となった(「大塩焼け」と呼ばれる)。


江戸期の天満

天満にはかつて、与力や同心の役宅が並んだ。今も残る「与力町」「同心町」という町名からそれをうかがい知ることができる。地図は1692(元禄5)年の『大坂之図』を加工したもの。【図は1692(元禄5)年】

大塩平八郎は自らの邸で「陽明学」を教える塾「洗心洞」を開いた(現在、跡地は「造幣局」の敷地内)。「洗心洞」跡の北側、「国道1号」沿いには、「大塩の乱 槐(えんじゅ)跡」の碑がある。ここは東組与力・朝岡助之丞の役宅庭跡で、「大塩平八郎の乱」において、「大塩軍」の大砲の砲弾が最初に撃ち込まれた地点である。
MAP __(大塩の乱 槐跡の碑)

「八軒家船着場」 大塩平八郎はここから船で逃走した

江戸時代の「淀川」は、「三十石船」が大坂~京都間を往来していた。「天満橋」~「天神橋」間の南の浜にある八軒家は、旅人を運ぶ「三十石船」の船着き場の一つ。この「八軒家浜」には、荷揚げ用の「雁木(がんぎ)」と呼ばれる石段があり、水位が変わっても船に乗り降りすることができた(写真の階段状の部分)。大塩平八郎は乱が失敗した後、この八軒家から船で逃亡し再起を図るも、40日後に隠れ家を追っ手に包囲され、爆薬で自害した。
MAP __(かつての場所)【画像は明治初期】

写真は2008(平成20)年、『水都大阪』再生の拠点として開設された「八軒家浜船着場」。観光クルーズ船の発着地となっているほか、イベントの会場としても利用されている。
MAP __(現在の場所)

かつての「八軒家船着場」は、昭和初期の河川改修により「将棊島」以南が埋め立てられたため、川沿いではなくなり廃止された。現在、「八軒家船着場の跡」の碑が、京阪「天満橋駅」の前にある「永田屋昆布本店」に建てられている。

「造幣局」と桜の通り抜け MAP __

1871(明治4)年、大阪の天満に「造幣寮」が設置され、1877(明治10)年、「造幣局」に改称された。写真は「大川」から見た「造幣局」。【画像は昭和初期】

今も貨幣の製造や地金の分析が行われている。ここは昔は藤堂家の伊勢・津藩の蔵屋敷だった。

珍しい八重桜が集められていたのが、「造幣局」の桜のはじまり。1883(明治16)年には桜の一般公開を始めた。【画像は明治後期~大正期】

現在、4月中旬~下旬頃に公開され、毎年花見客で賑わっている。

大阪で現存する最古の西洋建築「泉布観」 MAP __

「泉布観(せんぷかん)」とは、1871(明治4)年、「造幣寮」の応接所として建てられたコロニアル式の建物。明治天皇の命名で、「泉布」は「貨幣」、「観」は「館」を意味する。【画像は明治後期】

現存する大阪最古の西洋建築で、設計はトーマス・ウォートルス(「銀座煉瓦街」の設計者)。現在は「造幣局」の敷地外になるが、かつての敷地内の一画にあたり、建設当時からの場所に建っている。その隣には「旧桜宮公会堂」が建っている。


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