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徳川将軍家ゆかりの地と陸軍用地

江戸時代、現在の「中野駅」周辺は徳川将軍家の「鷹場」の一部となり、五代将軍・徳川綱吉の時代には「生類憐みの令」により、犬を保護する大規模な「犬小屋」が設けられた。また、八代将軍・徳川吉宗は度々鷹狩りのために中野を訪れ、気に入った場所に「桃園」を設けた。明治中期以降、「中野駅」の北側には、さまざまな陸軍施設が設置され、「太平洋戦争」の頃には「陸軍中野学校」も置かれた。


中野には「生類憐みの令」で「犬小屋」が誕生

江戸時代、中野は将軍家の鷹狩りの地であったが、「犬公方」といわれた五代将軍・徳川綱吉が「生類憐みの令」を発令したことにより、1695(元禄8)年、現在の「中野駅」周辺に「犬小屋」(「御用屋敷」「御囲(おかこい)」「御犬囲」などとも呼ばれた)が設けられた。図は1696(元禄9)年に描かれた設置当初の「犬小屋」の図の転載。【図は1930(昭和5)年】

「犬小屋」は、現在の「中野区役所」付近を中心として約30万坪の広さがあり、「なかのZERO」のあたりに「一の囲」、駅の北側に「二の囲」「三の囲」「四の囲」、駅南側・中野三丁目全域に「五の囲」が作られた。数万から30万頭の犬が養育されていた「犬小屋」は約15年間続いたものの、1709(宝永6)年に綱吉が死去すると「生類憐みの令」とともに廃止された。図は1702(元禄15)年に描かれた「犬小屋」の地図を基に1930(昭和5)年頃の鉄道線を加えて描かれたもの。【図は1930(昭和5)年】

「中野区役所」前には、「犬小屋」があったことを示す犬の像と「かこい」の説明板が設置されている。また、中野四丁目付近の旧町名「囲町」は、この「犬小屋」に由来していた。
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高円寺から中野に移された「桃園」

三代将軍・徳川家光が中野一帯に鷹狩りに訪れた際、雨宿りのため「高円寺」へ立ち寄ったところ、気に入り何度も訪れるようなった。境内には桃の木が多く植えられていたことから「桃園(ももその)」と命名され、本尊は「桃園観音」、本堂は「桃堂」と呼ばれるようになった。また、村名も家光が「小澤村」から「高円寺村」へ改めさせたといわれ、現在の町名にまで受け継がれている。

江戸中期の享保年間、八代将軍・徳川吉宗は、「生類憐みの令」以降中断していた鷹狩りを復活させ、中野周辺にも度々訪れるようになった。その中で、かつての「犬小屋」の「五の囲」の跡地付近が気に入り、この地に「高円寺」から「桃園」を移し、桃の木を植えたという。「桃園」の美観は、江戸の人々に知られるようになり、江戸後期には、一般にも開放され、花見の情景が『江戸名所図会 桃園春興』にも描かれた。しかし、江戸末期にはほとんどの桃の木は枯れてしまい、明治期以降は住宅地・商店街に変わっていった。【図は1836(天保7)年】

「桃園」はなくなったが、現在でもその名は施設名などに残されている。写真は「高円寺」の南に流れていた「桃園(ももぞの)川」の暗渠上に整備された「桃園川緑道」。暗渠化される前、この場所には「西山谷橋」が架けられていた。
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写真は「中野区立囲桃園公園」。徳川綱吉ゆかりの「囲」と吉宗ゆかりの「桃園」の名前を併せ持っており、歴史ある地であることが感じられる。
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「中野駅」の北に広がる軍事施設

かつて「二の囲」「三の囲」「四の囲」があった地は、明治期には楢林などが広がっていたが、明治中期の1889(明治22)年に「中野駅」が開業すると、1897(明治30)年、その北側の広い土地へ引き込み線が設けられ、戦時に物資補給用の鉄道敷設をする陸軍の「鉄道大隊」が転営してきた。「鉄道大隊」は鉄道2中隊、電信1中隊を擁し、1905(明治38)年には「気球班」も設置された。「電信隊」は、通信技術の研究が行われ、軍用伝書鳩「中野種」の開発も行われた。1907(明治40)年、「鉄道大隊」の改組により「交通兵旅団」隷属下の「鉄道連隊」「電信大隊」「気球隊」となり、翌年「交通兵旅団司令部」と「鉄道連隊」は千葉へ転出、中野には「電信大隊」(のち「電信隊」)と「気球隊」が残った(その後「気球隊」は1913(大正2)年に「所沢飛行場」へ転出)。「電信隊」は1922(大正11)年に「電信第一連隊」へ改称した。写真は大正後期~昭和初期の「電信第一連隊」の営門。「電信第一連隊」は1939(昭和14)年に相模原へ転出した。【画像は大正後期~昭和初期】

1939(昭和14)年、移転した「電信第一連隊」の跡地のうち、東側に「陸軍憲兵学校」、西側に「後方勤務要員養成所」が移転してきた。「後方勤務要員養成所」は陸軍初のスパイ養成所。1940(昭和15)年に「陸軍中野学校」と改称、秘密戦(防諜・謀略など)の要員を育成し、実際に秘密戦を実行していた「登戸研究所」とも人事や教育面で関係が深かった。「陸軍中野学校」の存在は、当時は陸軍内でも極秘とされていたが、戦後、映画化や書籍化され、有名になった。中野の陸軍施設の跡地は、戦後、公共施設などの用地として使用された。1949(昭和24)年には、「陸軍中野学校」跡地に「警察大学校」が移転。「陸軍憲兵学校」跡地には1968(昭和43)年に「中野区役所」が移転してきており、1973(昭和48)年に「中野サンプラザ」が開業した。

写真は2021(令和3)年撮影の「中野駅」北口。右の「中野サンプラザ」は2023(令和5)年に閉館、左の「中野区役所」は2024(令和6)年に「中野体育館」跡地に完成した新庁舎へ移転した。跡地には高さ235mのタワーなどからなる「NAKANOサンプラザシティ」が建設される予定となっている。
MAP __(中野区役所)MAP __(NAKANOサンプラザシティ予定地)【画像は2021(令和3)年】

「陸軍中野学校」跡地にあった「警察大学校」は2001(平成13)年に府中へ移転し、広大な跡地では計画的なまちづくりが行われ2012(平成24)年に「中野四季の都市」が街びらきとなった。現在では「中野四季の森公園」(写真)を中心に「早稲田大学中野キャンパス」「明治大学中野キャンパス」などが整備されている。
MAP __(中野四季の森公園)


市街地化の足掛かりとなった軍事施設

戦前期の「陸軍通信学校」

戦前期の「陸軍通信学校」

「中野駅」付近には明治期から昭和戦前期にかけて、時代の変化とともにさまざまな陸軍施設が置かれた。その中で現在、最も有名なのは「陸軍中野学校」であろう。当時は秘匿であったが、戦後、スパイ養成学校として映画などの題材となった。しかし、この学校があった期間は短く、1939(昭和14)年から1945(昭和20)年に群馬県へ疎開するまでの約6年間だけとなる。

「中野駅」周辺は江戸時代に徳川幕府によって設けられた「鷹場」や「犬小屋」の跡地であり、広大な雑木林や桑畑が広がっていた。「中野駅」駅前が発展するのは、1889(明治22)年に「甲武鉄道」(現・JR中央線)の開通に伴い駅が開設されてからのことで、当時の出入口は現在の南口側だけであった。北口側が開発されたのは、1897(明治30)年に「陸軍鉄道大隊」が転営してからのこと。軍人やその家族が住民として増えたことにより北口の繁華街が発展していった。「陸軍鉄道大隊」は、軍事的な研究・活動ばかりでなく、民間の鉄道敷設にも活躍。近くでは西武村山線(現・西武新宿線)高田馬場~東村山間の工事を担ったことが知られている。

「気象神社」

「気象神社」は、戦後の1948(昭和23)年、「高円寺氷川神社」に遷座されており、現在は快晴祈願や、気象予報士の合格祈願のために参拝する人も多い。
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「杉並区立馬橋公園」

「気象庁 気象研究所」の跡地に整備された「杉並区立馬橋公園」。
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明治後期、中野から馬橋・阿佐谷・天沼方面に向かって、「鉄道隊」「電信隊」のための細長い演習地も設けられた。その途中となる馬橋には、1925(大正15)年に「陸軍通信学校」が移転してきており、この学校が相模原に移転すると、代わって「陸軍気象部」が移転してきた。構内には1944(昭和19)年に「気象神社」が建立され、気象観測員が予報的中の祈願をしたという。この施設は戦後「気象庁 気象研究所」となり引き続き使用されたが、1980(昭和55)年に茨城県つくば市へ移転。跡地には「杉並区立馬橋公園」が整備され1985(昭和60)年に開園した。


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