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戦前期の高等教育施設と都市計画

大正期以降、福岡市では市街地が拡大、周辺町村との合併により市域も拡大した。こうした中、1925(大正14)年に福岡市と周辺の町村を一体とした「福岡都市計画区域」が決定。西南部の丘陵地の多くは、1931(昭和6)年決定の都市計画地域で「住居地域」とされ、現在は良好な環境の住宅地を中心とする街へ発展している。新しい市街地には、当時国内でも数少なかった高等教育機関も置かれ、多くの人材を輩出する街となった。


旧・鳥飼村に開校した旧制「福岡高等学校」 MAP __

1921(大正10)年の「高等学校令」により、翌1922(大正11)年4月、福岡市鳥飼(現・中央区六本松)に旧制の「福岡高等学校」が開校した。政治家の楢崎弥之助氏、作家の檀一雄氏をはじめ、のちに政財界・学術界などで活躍する多くの人材を輩出した。1949(昭和24)年、新制「九州大学」創設により「九州大学第一分校」となり、翌年「福岡高等学校」は廃校となっている。1963(昭和38)年、分校は廃止となり「教養部」が設置、1994(平成6)年の「教養部」廃止後も「全学教育(一般教養教育)」を行ってきた。写真は1931(昭和6)年頃の正門と本館。本館の校舎は1967(昭和42)年まで使用された。【画像は1931(昭和6)年頃】

2009(平成21)年、「九州大学 六本松キャンパス」は「伊都キャンパス」へ移転、翌年「UR都市機構」に売却され、その後「青陵の街・六本松地区」として再整備が行われた。2017(平成29)年に街びらきとなり「JR九州」の開発による複合施設「六本松421」が開業、施設内には「福岡市科学館」が開館、「九州大学 法科大学院」が「箱崎キャンパス」から移転してきた。「青陵の街・六本松地区」のうち南側部分には、2018(平成30)年から翌年にかけて、裁判所(写真中央奥)、検察庁、弁護士会館など、法曹関係の施設が移転・集約された。

1931(昭和6)年頃の航空写真。校舎の上(北)側に見える池は「大濠」で、1929(昭和4)年に「大濠公園」として整備された。校舎の左、写真の左(西)側から下(南)側にカーブしている線は、1925(大正14)年にこの区間が開通した北九州鉄道。早良郡鳥飼村が福岡市へ編入されるのは開校の3年前の1919(大正8)年であるが、写真が撮影された頃でも、まだ市街地化は進んでおらず、周辺には水田が拡がっている。【画像は1931(昭和6)年頃】

かつての「九州大学 六本松キャンパス」内に、1968(昭和43)年に建立されていた「青陵乱舞の像」(写真左)と、2002(平成14)年、創立80周年を記念して建てられていた「旧制 福岡高等学校跡」碑(写真中央)は、「青陵の街・六本松地区」の完成後、敷地内東寄りの国道沿いへ移設された。「青陵」とは「希望にあふれた若者を育てる緑豊かな丘」という意味で、旧制「福岡高等学校」の代名詞として当時の寮歌に登場するほか、同窓会「青陵会」に名を残している。

「福岡大学」は「福岡高等商業学校」に始まる MAP __

「福岡高等商業学校」は1934(昭和9)年に創立。当初は福岡市雁林町(現・中央区天神)の仮校舎で授業が行われ、翌1935(昭和10)年に福岡市七隈(現・城南区七隈)に新校舎が誕生した。七隈は旧・早良郡原村の一部で、1929(昭和4)年に福岡市へ編入されていた。写真は1939(昭和14)年当時の「七隈学舎」の全景で、一番右に写っている建物が最初に建てられた「本館」。1944(昭和19)年に戸畑市(現・北九州市)の「九州専門学校」を統合し、「九州経済専門学校」となり、終戦後の1946(昭和21)年に「福岡経済専門学校」と改称、1949(昭和24)年に「福岡外事専門学校」を統合し、新制の「福岡商科大学」が商学部のみの単科大学として設立された。1956(昭和31)年、法経学部(現・法学部、経済学部)の増設に伴い、校名が「福岡大学」に改められた。【画像は1939(昭和14)年】

その後、薬学部、工学部、人文学部、体育学部(現・スポーツ科学部)、理学部、医学部が増設され、現在では9学部31学科のほか、大学院(法科大学院を含む)、大学病院、附属中学校・高等学校を擁する西日本屈指の私立総合大学となっている。約54.8万㎡(「みずほPayPayドーム福岡」のフィールド面積約45個分に匹敵)もの広大な敷地を誇る「七隈キャンパス」には、大学の全学部と、ほぼ全ての大学院研究科があり、約2万人の学生が学ぶ。1つのキャンパスに集約されていることで、各学部・学科の連携により個性豊かで専門性の高い教育プログラムが提供されるほか、多様で多人数の学生が集まっていることから、サークルなど課外での交流・活動も盛ん。2005(平成17)年に福岡市地下鉄七隈線が開通、「福大前駅」が開業。2006(平成18)年には「福岡外環状道路」の「福大トンネル」区間、「福岡高速5号線」の「堤出入口」が供用されるなど、交通利便性も向上している。

戦前の都市計画に始まる城南地区の住宅地 MAP __ (南公園)

1919(大正8)年、旧「都市計画法」が制定、東京・大阪・名古屋などの六大都市に適用され、1923(大正12)年には福岡を含む25都市に適用が拡大された。1925(大正14)年に福岡市のほか、周辺4町7村が含まれる「福岡都市計画区域」が決定となった。図は決定当時の『福岡都市計画区域図』。当時の福岡市のほか、筑紫郡八幡村など周辺の町村も指定されている。

1931(昭和6)年には「商業地域」「工業地域」「住居地域」「未指定地域」(炭鉱、塵芥焼却場、陶器工場などが現存するため未指定とされた地域)の4地域からなる都市計画地域も指定。城南地区においては、東部の国鉄(現・JR)鹿児島本線沿いが「工業地域」、新柳町周辺が「商業地域」、西南部の丘陵地は一部が「未指定地域」となったほか、大部分は「住居地域」に指定された。【図は1925(大正14)年】

1935(昭和10)年には自然美を維持し、破壊を防ぐことを目的として、「風致地区」10地区が決定。城南地区においては、地図の通り「第六号地区」として、北は現在の「赤坂三丁目交差点」付近から「平尾浄水場」「鴻巣山」「大池(野間大池)」に至る一帯が指定された。この「第六号地区」の「風致地区」内には1941(昭和16)年に「南公園」が都市計画公園として決定され、同年に開園している。現在、この一帯の「風致地区」は一部解除されているが、丘陵部を中心に引き続き指定されている。

都市計画区域内では、1922(大正11)年~1933(昭和8)年の「西南部耕地整理事業」のほか、戦前期の1927(昭和2)年から1941(昭和16)年にかけて13地区の土地区画整理事業が認可され、うち8地区が戦前・戦中期に完了した。【図は1935(昭和10)年】


福岡市の拡大と城南地区

福岡市は1889(明治22)年、城下町であった福岡と、商人の町の博多が一緒になり誕生。その市域は、現在の中央区の北半分と博多区の一部(北西部)、御笠川(石堂川)より西側、樋井川の東側の一帯にあたり、城南地区も含まれるその他の地域は市外の郡部の町村であった。

城南地区は福岡・博多の都心部の近郊に位置しながらも自然豊かな地で、時々の実力者に好まれたという歴史もある。江戸中期には早良郡田島村(のちの早良郡樋井川村、現・城南区友泉亭)に藩主の別邸「友泉亭」が設けられた。幕末には那珂郡平尾村(のちの筑紫郡八幡村の一部、現・中央区平尾)は野村貞能とその妻もと(のちの望東尼)の隠棲先に。昭和初期には『炭鉱王』とも呼ばれた貝島家の邸宅・別邸が、高宮(現「高宮南緑地」)と「友泉亭」の跡地に置かれた。

大正期以降、都市の拡大とともに、周辺の自治体は福岡市に合併されていった。市の面積は、誕生当初の1889(明治22)年は約5k㎡であったが、1928(昭和3)年には約34k㎡、1942(昭和17)年には約129k㎡と大きく拡大している。戦後も周辺町村の編入が行われ、1975(昭和50)年の早良郡早良町(現・早良区東入部周辺)の編入により約334k㎡となり、現在の市域となった。

城南地区においては、1912(大正元)年の筑紫郡警固村(現・中央区警固周辺)、1919(大正8)年の早良郡鳥飼村(現・中央区鳥飼・城南区鳥飼周辺)、1926(大正15)年の筑紫郡八幡村(現・南区高宮周辺)などが初期の合併として挙げられる。地図は1937(昭和12)年当時の福岡市(面積約90k㎡)。黒塗り部分が誕生当初の福岡市であり、約50年の間におよそ18倍の市域に拡大した。新しい市域では、鉄道や道路の敷設、住宅地の開発、学校の開校や移転、商店の開設など都市化が進んだほか、都市計画街路・都市計画公園の建設、「風致地区」の指定など、計画的な街づくりも行われた。


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