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商業地・住宅地としての発展

福岡の都市が拡大した大正期から昭和戦前期、城南地区においては、新たに住宅地が誕生、商業地や商店も増えていった。住宅地開発では、耕地整理・土地区画整理で誕生したもののほか、比較的小規模な開発では民間会社等による造成も行われた。明治後期、博多の歓楽街「柳町」は、大学の誘致に伴い、当時の郊外であった「新柳町」に移転、路面電車の開通もあり、新たな賑わいをもたらした。


大学誘致により歓楽街「柳町」は「新柳町」へ移転 MAP __

1900(明治33)年、帝国議会にて「九州・東北帝国大学設置建議案」が可決。その第一段階として、九州に医科大学の開設が決まり、長崎、熊本、福岡の3県で誘致合戦が展開され、福岡県は福岡市、「博多商業会議所」と協力し、官民が一体となり誘致運動を行った。「文部省」の係員が候補地視察に来た際、当時の福岡県知事は、候補地に近かった博多の歓楽街「柳町」の移転を約束。福岡は帝国大学の誘致に成功し、1903(明治36)年に「京都帝国大学福岡医科大学」(1911(明治44)年より「九州帝国大学医科大学」、現「九州大学医学部」)の創設となった。開校後も、しばらく「柳町」はそのままであったが、数年後に移転問題が論争となった。県は「柳町」での営業禁止を決定、当時の福岡市の有力者で大学誘致にも尽力した渡辺與八郎が所有していた筑紫郡住吉村高畑(現・中央区清川)へ街をまるごと移転させることとした。こうして、「新柳町」は1910(明治43)年1月に誕生、1911(明治44)年末までに移転が完了した。1911(明治44)年には渡辺與八郎の尽力により博多電気軌道の「博多駅前」「新柳町」「天神町」「取引所前」を結ぶ路面電車が開通、「新柳町」に活気をもたらすようになった。

写真は「柳町」から移転してきた「小松屋」の裏面で、撮影は大正期~昭和戦前期のもの。「新柳町」は大正期には好景気もあり、西日本有数の歓楽街となった。【画像は大正期~昭和戦前期】

「新柳町」は1945(昭和20)年6月の「福岡大空襲」で町の半分が焼ける被害に遭った。昭和30年代以降は、華やかな飲食店街や料亭街、旅館街となり、近年はマンションも増えている。写真はかつて「小松屋」があった交差点(「清川ロータリー」と呼ばれる)付近の様子。「小松屋」は右奥角のマンションのあたりにあった。

「柳橋連合市場」への発展につながる「明百貨店」 MAP __

「柳橋廉売市場」は、1918(大正7)年頃、「那珂川」に架かる「柳橋」の袂で、鮮魚商数人が店を開いたのが始まりで、通りの向かいにあった歓楽街「新柳町」の『台所』として発達したといわれる。1918(大正7)年、鮮魚商の安部栄次郎氏は息子の明氏の名前を採り「明百貨店」を「柳橋廉売市場」に創業。その後、安部氏は市場全体を買い取り、「明百貨店」では鮮魚のほか、青果、米、履物、呉服なども扱うようになった。従業員は約150人を数え毎日祭りのように賑わったという。賑わいとともに周辺に店舗が増え、「サービス」「中央」「明第一」「明第二」「宝新道」の五つの小組合が誕生。「明百貨店」は1943(昭和18)年に戦争の激化により閉店となるが、戦後には五組合が手を結び「柳橋連合市場」が誕生した。

「明百貨店」を経営していた安部氏は、戦後、鮮魚仲買業に参入、現在は『九州No.1の鮮魚仲卸企業』と呼ばれる「アキラ水産グループ」へ成長している。【画像は昭和戦前期】

現在の「柳橋連合市場」は生鮮食料品の豊富な品揃えが有名で、『博多の台所』とも呼ばれている。プロの料理人から一般の買い物客、近年は国内外の観光客まで、多くの人で賑わう。鮮魚、青果を扱う店舗は、朝6時から9時くらいまでに開店、夕方に店仕舞いとする所が多い。写真は2017(平成29)年の撮影。【画像は2017(平成29)年】

かつて写真中央付近にあった「柳橋連合市場」の大きな看板は2019(令和元)年に撤去された。写真左奥の建物は、市場に隣接してあったスーパーマーケットの跡地に2022(令和4)年に開業したホテル「クロスライフ博多柳橋」。

組合により開発された住宅地「野間文化村」 MAP __

1921(大正10)年、「福岡県庁」の職員が自らの住宅を求め住宅組合を作り、翌年、筑紫郡八幡村野間(現・南区多賀一丁目)を選定。隣接地も含め「野間第二耕地整理組合」を設立して整地工事が行われ、集落名は、協議の結果「文化村」となった。その後、住宅の建設も進められ、1925(大正14)年に全て竣工となった。

写真は1940(昭和15)年頃の街並み。街路沿いには組合により、吉野桜が植樹されており、ちょうど開花時期に撮影されている。左上の丘には1927(昭和2)年に当時『炭鉱王』と呼ばれていた貝島家の貝島嘉蔵氏の邸宅が直方市から移築された。この邸宅は戦後、「アメリカ合衆国領事公邸」「福岡アメリカン・センター館長公邸」に使用され、2003(平成15)年から2005(平成17)年にかけて、福岡市に寄付された。【画像は1940(昭和15)年頃】

かつて桜並木があった通りの現在の様子。左上に見える丘は、1981(昭和56)年より特別緑地保全地区に指定されている「高宮南緑地」。

「高宮南緑地」内にはかつての貝島邸の一部の建物が現存しており、2017(平成29)年に「旧高宮貝島邸」として、福岡市登録文化財に指定。その後、整備が行われ、2022(令和4)年に「高宮南緑地・旧高宮貝島家住宅」(写真)がオープンした。
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耕地整理の際、予算の関係から「若久川」の橋は土橋を架設する予定であったが、土地所有者から石橋の寄付の申し出があり、実際には鉄筋コンクリート造橋梁で架設となり、1923(大正12)年に竣工、「文化橋」と命名された。現在、「文化橋」の袂には寄付者名を刻んだ石碑がある。橋は河川改修時に改築されている。
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竣工した1925(大正14)年に建てられた「多賀町記念碑」。
MAP __【画像は1940(昭和15)年頃】

当初の建立場所からは移設の上、現存している。
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戦前に開発された「遊仙園住宅街」 MAP __

昭和戦前期に「遊仙園住宅街」が分譲されたときのチラシ。「福岡市高宮」とあるが、分譲地は現在の南区皿山一丁目であったと思われる。裏面には「建国二千六百年記念経営」とあることから、1940(昭和15)年頃の発行と考えられる。「第一貯蓄証券社」という民間会社の開発で、総面積は2万5千坪、一区画は200坪前後と記載されている。終戦後の1948(昭和23)年の航空写真を確認しても、この分譲地周辺に住宅はほとんど見られない。【画像は1940(昭和15)年頃】

チラシの裏面に掲載されていた「三間道路」の写真。分譲地名を表記した杭が立てられていた。【画像は1940(昭和15)年頃】

現在、「遊仙園住宅街」として開発された街区も含め、南区皿山一帯には住宅地が広がっている。過去の航空写真を確認すると、「遊仙園住宅街」として分譲された周辺は1960年代頃から住宅が立地するようになり、1970年代頃には住宅街となっている。「遊仙園住宅街」の痕跡としては、南区皿山一丁目6番から8番付近などに、チラシにあった「三間道路」が残る(写真)ほか、「遊仙」の名を冠したアパートが1棟ある。

ちなみに、分譲当時、南側の「山王神社」(写真)周辺は「野間焼」の生産地であった。明治中期以降は「汽車土瓶」(汽車内に持ち込めるように駅で緑茶が販売されており、その容器となる土瓶)の産地となり、大正期には全九州分、毎月3万個程度出荷していたといわれている。
MAP __(山王神社)

「遊仙園住宅街」のチラシの裏面に掲載されていた「野間大池」の写真。九州鉄道「高宮駅」と「遊仙園住宅街」の間にあった。農業用水や洪水調節の溜池となっていたほか、一面に蓮が咲く名所としても知られ、蓮根の産地でもあった。【画像は1940(昭和15)年頃】

現在、「野間大池」は福岡市内最大の治水池となっているほか、周辺は「野間大池公園」として遊歩道、グラウンドなどが整備されている。
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