このまちアーカイブス INDEX

信仰と文化

本所・向島には伝説や歴史がある古社・古刹が多く残る。また、江戸期以降は本所を舞台に相撲・浮世絵など文化的な発展も見られた。


860(貞観2)年創建と伝わる「牛嶋神社」

860(貞観2)年、慈覚大師(円仁)が創建したといわれる「牛嶋神社」。1180(治承4)年、源頼朝が大軍を率いて下総国から武蔵国へ「隅田川」を渡ろうとした際、洪水のため足止めされたが、武将・千葉常胤(つねたね)の祈願により無事渡ることができたことから、頼朝は翌1181(養和元)年に社殿を造営して寄進したともいわれる。戦国時代の1538(天文7)年、後奈良天皇より「牛御前(うしのごぜん)社」という勅号を賜わり、江戸期には将軍家より「江戸城」の鬼門守護の神社として崇敬されたほか、本所地域の総鎮守として、また「撫牛」(牛の座像のうち、自分の体の悪い部分を撫でる)でも信仰を集めた。明治期に入ると「牛嶋神社」と称されるようになった。写真は明治後期の「牛嶋神社」。
MAP __【画像は明治後期】

「牛嶋神社」は1923(大正12)年の「関東大震災」で社殿を焼失。その後、「帝都復興事業」で「隅田公園」が整備されることに伴い、現在の向島一丁目(「水戸徳川家小梅邸」跡地)へ遷座、1932(昭和7)年に社殿が完成した。この社殿は「太平洋戦争」での戦火からは免れ現存している。近年では「東京スカイツリー」の氏神としても知られる。特徴的な「三ツ鳥居」は2018(平成30)年、台風により倒壊したが、翌年再建を果たした。
MAP __

三井家の守護社となった「三囲稲荷社」 MAP __

「三囲(みめぐり)稲荷社」は、弘法大師空海の創建とも伝わる古社。文和年間(1352~1356年)に近江の「三井寺」の僧・源慶が東国遍歴の際に社を改築しようとしたとき、土中より白狐にまたがる老翁の像が出て、白狐が現れ神像の周りを三回回ったことが「三囲」の由来といわれる。小梅村の鎮守であったほか、享保年間(1716~1736年)には、三井家の江戸における守護社とされた。三井家は、江戸前期に江戸に進出して以降、事業を拡大していた豪商で、「三囲」は三井の「井」の字を囲う社号から、三井を守ると考えられたためで、「越後屋」(現「三越」)の本店・支店でも分霊が祀られた。「三囲稲荷社」は、浅草から見ると、「墨堤」の先に大きな鳥居の上部が見えるのが印象的で、名所としても知られていた。明治期に入ると神仏分離が行われ、1873(明治6)年に「三囲神社」に改称された。

写真は明治後期の「三囲神社」で、鳥居が「墨堤」よりも低い場所にあることがわかりやすい。かつては、浅草方面から「竹屋の渡し」で「隅田川」を渡って、この鳥居から参拝することが主流であった。【画像は明治後期】

現在も三井家からの崇敬が篤く、境内には「三井邸」から移された「顕名(あきな)霊社」「三柱鳥居」や、「池袋三越」(2009(平成21)年閉店)にあった「ライオン像」など、三井家や「三井グループ」に関連するものも多く奉納されている。写真は現在の「墨堤」側の鳥居。

葛飾北斎などの文化人ゆかりの地でもある「南割下水」 MAP __

「割下水(わりげすい)」とは、江戸期に本所一帯の排水のために造られた2間(3.6m)ほどの水路で、道の中央に設けられていた。南北に2本あり、現在の「北斎通り」に「南割下水」、「春日通り」に「北割下水」が流れていた。写真は1908(明治41)年の「南割下水」。【画像は1908(明治41)年】

写真は現在の「北斎通り」。「北割下水」は大正期に埋め立てられ、「南割下水」は昭和初期に暗渠となった。「南割下水」周辺は、葛飾北斎が生まれた地であるほか、歌舞伎狂言作家・河竹黙阿弥、落語家・三遊亭圓朝が暮らした地でもあるなど、ここを所縁の地とする江戸後期の文化人も多い。「割下水」は『鬼平犯科帳』をはじめとする、歴史小説・時代劇の中に描かれることもある。


本所に生まれ、暮らした葛飾北斎

『冨嶽三十六景 本所立川』

1831(天保2)年頃に描かれた『冨嶽三十六景 本所立川』。【図は1831(天保2)年頃】
MAP __

江戸後期の浮世絵師・葛飾北斎は1760(宝暦10)年、江戸本所割下水(現・墨田区亀沢)で生まれた。90年の生涯の中で93回も転居しているが、そのほとんどは、この周辺であったという。「赤穂義士」の討ち入りの際、討ち死にした吉良側の剣客・小林平八郎は葛飾北斎の曽祖父といわれ、また、北斎が幼少期の頃、「吉良邸」跡地にあった幕府の鏡師・中島伊勢の屋敷で養子として暮らしており、「赤穂事件」との所縁もある。

「すみだ北斎美術館」

写真は2016(平成28)年に開館した「すみだ北斎美術館」。墨田区立の美術館で、「緑町公園」に隣接して建てられている。
MAP __

代表作といえる錦絵『冨嶽三十六景』は、1831(天保2)年頃、北斎が晩年期・70代になってから手掛けた作品。図は『冨嶽三十六景』の中の一枚、『本所立川』。江戸期の「竪川」北岸には材木問屋が集まっており、材木の奥に「富士山」が描かれている。


相撲の常設屋内施設として「回向院」境内に建設された「国技館」

「回向院相撲」は、江戸末期より「回向院」境内で興行されていたが、その会場は仮設の小屋であった。1906(明治39)年、「帝国議会」は「回向院」の境内に、常設の相撲の屋内施設の建設を決定。「東京駅」などの設計者としても知られる辰野金吾が設計し、同年に着工、1909(明治42)年、約13,000人が収容可能という大規模な建物が竣工した。名称は開館式直前まで決定していなかったが、設立委員会の委員長・板垣退助の決断により「国技館」となった。写真は明治後期の「国技館」で、右が「回向院」の本堂。
MAP __【画像は明治後期】

「国技館」の建物は、1917(大正6)年の火災で焼失、1920(大正9)年に再建されるも、1923(大正12)年の「関東大震災」では屋根・柱などを残して焼失し、翌年に再度の再建となった。「太平洋戦争」中の1944(昭和19)年に陸軍に接収され、風船爆弾の工場となったが、翌年の空襲で再び焼失。戦後は「GHQ」が接収・改装し「メモリアルホール」となった。接収中もボクシング・プロレスなどの興行の会場として使用されたが、大相撲の会場としては1946(昭和21)年を最後に、使用されることはなかった。1952(昭和27)年に接収が解除となったが、すでに、蔵前に新国技館の建設が進められていたことから売却され、「国際スタヂアム」(写真)となり、さらに1958(昭和33)年に「日本大学講堂」となったが、引き続きボクシング・プロレスなどの興行の会場としての使用も多かった。【画像は1950年代】

1983(昭和58)年、老朽化などを理由に解体され、跡地には劇場などが入る複合施設「両国シティコア」が建設された。中庭の駐輪場には、旧「国技館」の土俵の位置がタイルの模様で示されている。

戦後、両国から見て「隅田川」の対岸となる蔵前に「蔵前国技館」が造られ、大相撲の興行などが行われていたが、老朽化などから、現在の「両国国技館」(写真)が「両国駅」北側の貨物ヤード跡地に建設され、1985(昭和60)年に開館した。


次のページ 鉄道の発達


MAP

この地図を大きく表示



トップへ戻る