「似島桟橋」の様子。【画像は昭和戦前期】
「宇品港」の南に位置する「瀬戸内海」に浮かぶ「似島(にのしま)」は、江戸時代には、本土への荷物を中継する「荷の島」と呼ばれていた。「安芸小富士」という「富士山」に似た山(標高278m)があることから、現在の表記「似島」となったという。
「日清戦争」時の1895(明治28)年、島には「似島検疫所」(のちの「第一検疫所(似島検疫所第一消毒所)」)が設置された。これは海を隔てた戦地で蔓延していた伝染病への感染を水際で防止することが目的で、当時この施設は、世界最大級の規模を誇っていた。1904(明治37)年に「日露戦争」が勃発すると、設備の増強が求められ、1905(明治38)年に「第二検疫所」も設けられた。
日本で初めてバウムクーヘンを焼いたカール・ユーハイム。
【画像は昭和戦前期頃】
「似島」には、「第一次世界大戦」下の1917(大正6)年、ドイツ人捕虜を収容する「似島俘虜収容所」も開設された。菓子職人カール・ユーハイムも日本に連行され、収容された一人であった。彼は、1919(大正8)年に「広島県商品陳列所」(現「原爆ドーム」)で開催された「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」で、日本で初めてバウムクーヘンを製造・販売。1922(大正11)年には1号店となる「E.ユーハイム」を開き、製菓会社「ユーハイム」の礎となった。
「太平洋戦争」下でも「似島」での検疫は続けられていたが、戦局の悪化により帰還兵は減少。検疫所があったことから医薬品の蓄えがあり、原爆投下後には臨時救護野戦病院となった。現在も島内に遺構が散在しており、当時の様子を伝えている。