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祭りと特産品

博多には「博多祇園山笠」「博多どんたく」「玉取祭」など、全国的に知られる祭りがあり、地元の住民のほか見物客も訪れ、大いに賑わいを見せる。また、この街の特産品としては「博多織」「博多人形」が有名で、博多の食も明太子、博多ラーメンなど、全国的な人気となったものも多い。


博多を代表する夏祭り「博多祇園山笠」 MAP __(櫛田神社)

博多を代表する「櫛田神社」の夏祭り「博多祇園山笠」。その起源には諸説があるが、一般には鎌倉時代の1241(仁治2)年、博多で疫病が流行した際、「承天寺」の開祖で当時の住職・聖一国師円爾が、町民が担ぐ木製の施餓鬼棚に乗って祈祷水を撒きながら町を清めて回り、疫病退散を祈願したことが始まりとされる。祭りは毎年7月1日から半月間にわたって行われ、7月15日の「追い山笠」「櫛田入り」でクライマックスを迎える。【画像は大正期】

「博多祇園山笠」では、毎年7月1日から7月15日の午前0時頃まで、13の「飾り山笠」が福博の町で公開される。この「飾り山笠」は明治期に電線が架設されたため、実際に動かす「舁(か)き山笠」と分化した。【画像は明治後期~大正期】

7月1日から展示されてきた「飾り山笠」は、7月15日を迎えるとすぐに「山解き」(解体)され、早朝の「追い山笠」を迎えるが、「櫛田神社」の境内の「飾り山笠」(写真)は「山解き」されず、翌年の6月まで展示される。この常設展示は1964(昭和39)年に神社の知名度の向上と観光客の誘致を目的に始められた。


新年を祝う「博多松囃子」を起源とする「博多どんたく」

「松囃子」は中世に京都などで盛んになった、新年を祝言と種々の芸で祝う年賀行事。博多における「松囃子」の始まりは平安時代末期とされる。江戸初期の博多の豪商・神屋宗湛が記した『宗湛日記』では、1595(文禄4)年、新しい領主となった小早川秀俊(豊臣秀吉の甥、のちの秀秋)への祝言のため(この時は年賀のためではない)「名島城」へ赴き「博多松囃子」を披露したという記述も見られる。

江戸時代になると「博多松囃子」の一行が「福岡城」を訪れ、藩主・黒田氏を表敬する年賀行事が正月15日に行われるようになった。福禄寿・恵比須・大黒天の三福神と稚児からなる伝統的な行列に、各町・各人が趣向を凝らした格好や出し物を行う自由な行列「通りもん」が続いた。この日は無礼講で、表敬のあとは福博の町へ繰り出して祝い、お祭り騒ぎとなった。

昭和30年代の「博多松囃子」の行列

写真は「博多松囃子」の行列が「福岡城」内を練り歩く様子。
【画像は昭和30年代】

「福岡市役所入口交差点」を行く「どんたくパレード」。

「福岡市役所入口交差点」を行く「どんたくパレード」。
【画像は2014(平成26)年】

「明治維新」後の1872(明治5)年、「博多松囃子」は華美で治安も悪化するとして禁止されたが、一方で「天長節」など国家の祝日には祝賀が許可されたため、1878(明治11)年以降は、旧正月15日以降の最初の祝日(「紀元節」が多かった)に「博多松囃子」を行うようになった。祝日の開催が義務付けられたことで、休日という意味の「どんたく」が別称として徐々に使われるようになり、当初は特に「通りもん」の行列が「どんたく」「どんたく連」などと呼ばれた。「どんたく」は「休日」を意味するオランダ語「ZONDAG(ゾンターク)」からきた外来語で、江戸末期・明治期の書籍や錦絵にも登場する。半日休みを意味する「半どん」の語源でもある。

1895(明治28)年、陸軍の希望から、11月に行われる「日清戦争」での戦死者の「鎮魂祭」のために「博多松囃子」を開催することとなり、以降、陸軍の「福岡招魂祭」の開催日に併せての行事となったため、江戸時代以前から続いていた年賀行事としての伝統は失われた。

大正末期頃からは「博多松囃子」も含めて「どんたく」「博多どんたく」と呼ぶことが一般化した。戦時体制下となっていた1939(昭和14)年より「どんたく」は中断。終戦後の1946(昭和21)年、「博多復興祭」の中で小規模ながら「どんたく」が復活。翌1947(昭和22)年に現在の「どんたく」に近い形式での開催が始まり、1949(昭和24)年からは新た制定された祝日「憲法記念日」に合わせ、5月3日・4日に「松囃子どんたく港祭り」が開催されるようになった。その後、1962(昭和37)年に現在の名称でもある「博多どんたく港まつり」へ改称、市民の祭りとして広く参加者を募るようになった。

現在は伝統的な三福神と稚児の行列である「博多松囃子」と、「通りもん」の自由な行列から発展した「どんたく隊」と呼ばれる様々なグループの演舞・パレード、両方が楽しめるイベントとなっている。「博多松囃子」は、重要無形民俗文化財となっており、「博多どんたく港まつり」では「どんたくパレード」の先頭を務めるほか、福博の町内をはじめ、「崇福寺」「黒田氏墓所」「福岡城」「護国神社」「福岡市役所」など、所縁のある場所を巡る。

毎年1月3日に開催される「筥崎宮」の「玉取祭」

「玉せせり」ともいわれる「筥崎宮」の「玉取祭」は、起源は定かではないが、室町時代に始まったともいわれ、「九州三大祭」とされる。1月3日、締め込み姿の男たちが幸運を授かるとされる「陽の玉」をめぐり争奪戦を繰り広げる。【画像は大正期】

写真は2014(平成26)年の「玉取祭」の様子。奥の鳥居は「一之鳥居」(「筥崎宮」では「本殿」に近い方から数える)。1609(慶長14)年に福岡藩主・黒田長政が建立した石鳥居で、重要文化財となっている。【画像は2014(平成26)年】

幕府への献上品だった「博多織」

鎌倉時代の1235(嘉禎元)年、33歳だった満田彌三右衛門(みつたやざえもん)は「博多津」(現「博多港」)から船で宋へ渡り、6年間の滞在の間に織物などの製法を修得、1241(仁治2)年に博多に戻ると、織物の技法を家伝とした。その後、子孫も明に渡り技法を学ぶなど改良が加えられ「博多織」の原点となった。現在、満田彌三右衛門は『博多織の祖』と呼ばれる。江戸時代になると、福岡藩主・黒田氏が「博多織」の帯と反物を幕府へ献上したことから「献上博多」と呼ばれるようになった。江戸後期になると庶民も「博多織」を着るようになり、七代目・市川団十郎が「博多織」の衣装をまとい舞台上で宣伝すると、江戸中で評判になり、全国に「博多織」が広まったといわれる。写真は昭和前期の「博多織」の手織り機。【画像は昭和前期】

現在も特に上等な「博多織」は「献上博多」と呼ばれる。写真は「五色献上」と呼ばれる五色で構成された献上柄の帯。「博多織」は1976(昭和51)年に国の伝統的工芸品に指定、2007(平成19)年に地域団体商標に登録された。


博多・福岡の特徴的な工芸品と料理

「博多人形」の売買の様子

「博多人形」の売買の様子。
【画像は昭和前期】

「博多人形」の素焼きに上絵を描く様子

「博多人形」の素焼きに上絵を描く様子。
【画像は昭和前期】

博多では「博多織」のほかにも「博多人形」「博多独楽」「博多曲物」など長い歴史をもつ伝統工芸品が見られる。

博多における人形の文化としては、室町時代に京都から移り住んだ小堀家が代々製作する細工物人形の「山笠人形」があり、また「福岡城」築城のために呼ばれた瓦職人・正木宗七に始まる素焼き「宗七焼」の人形もあった。こうした人形制作の文化を背景に、江戸後期の文政年間、中ノ子吉兵衛(江戸初期頃に始まる博多の陶師・中ノ子家出身)が素焼きの彩色人形の「博多素焼人形」を創案。明治中期に国内外の博覧会で高い評価を得ると「博多人形」の名で全国・世界へ広まった。

このほか、木工品としての「博多独楽」や「博多曲物」は庶民の生活の中から生まれ、職人の間で受け継がれながら、博多を代表する工芸品となった。「福岡市博物館」の二階にある「はかた伝統工芸館」では、職人の技を伝える作品やその製作過程・歴史などが紹介されている。

博多・福岡は食の宝庫としても知られる。「玄界灘」の魚介類といった海の幸を生かした料理のほか、辛子明太子や博多ラーメンといった独特な食も生み出されてきた。水炊きやもつ鍋といった鍋料理も、博多・福岡を代表する料理となっている。


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