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福岡市西部シーサイドエリアの開発

1977(昭和52)年の「第4次福岡市基本計画」で、人口急増のための住宅地確保の一環として、百道、姪浜などの臨海部における埋立て造成による住宅地確保が盛り込まれた。1981(昭和56)年の「第5次福岡市基本計画」では、より複合的な目的をもった新しい海浜都市の整備が目標とされ、翌年から「地行・百道地区」「小戸・姪浜地区」の埋立てが始まった。


「シーサイドももち」の発展 MAP __(福岡市博物館)

「百道地区」の埋立ては1982(昭和57)年から1986(昭和61)年に行われた。写真は1983(昭和58)年5月に「西南学院高等学校」から校庭越しに撮影した埋立て中の様子。この学校は2003(平成15)年に埋立地内となる早良区百道浜一丁目の現在地に移転しており、撮影地点は現在「西南学院大学」の「西南クロスプラザ」になっている。1986(昭和61)年、埋立地の愛称は「シーサイドももち」に決まった。【画像は1983(昭和58)年】

「シーサイドももち」では、「アジア太平洋博覧会(愛称「よかトピア」)」が1989(平成元)年3月から9月に開催された。「福岡タワー」(写真左奥)は「よかトピア」の開幕と同時に営業開始。「テーマ館」だった建物(写真右)は、翌年「福岡市博物館」として再オープンした。閉幕後、街づくりが本格化し、文化施設、レジャー施設、学校、公園、住宅をはじめ多くの機能が集積する都市が誕生した。現在は多くのIT企業や研究所、放送局もあり、福岡の高度な情報発信基地ともなっている。

西新・姪浜の海岸線の新旧比較

この航空写真は戦後すぐの頃の西新・姪浜の海岸線。赤線で大正初期の海岸線を追記している。「早良炭鉱 本坑」沿岸はボタの捨て場となっており、この頃までに一部が埋め立てられたことがわかる。その他の場所は埋立てが行われている様子は見られない。

「早良炭鉱 本坑」の閉山後の跡地は、1964(昭和39)年から1968(昭和43)年にかけて、「日本住宅公団」によりボタを利用して埋立が行われ、豊浜の住宅地が造成された。【画像は1947(昭和22)年】

「地行・百道地区」(「シーサイドももち」)では1982(昭和57)年から1986(昭和61)年、福岡市により埋立てが行われた。また、同時期の1982(昭和57)年から1988(昭和63)年には「小戸・姪浜地区」(「西福岡マリナタウン」)で、福岡市の第三セクター「博多港開発」による埋立ても行われた。

この航空写真は埋立てが完了後、2001(平成13)年撮影の航空写真で、撮影当時の主な施設名、1947(昭和22)年当時の旧海岸線を記載している。現在「福岡ドーム」は「福岡PayPayドーム」と呼ばれる。「ホークスタウンモール」は2016(平成28)年に閉店、跡地には2018(平成30)年に商業施設「MARK IS 福岡ももち」が開業している。【画像は2001(平成13)年】



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