不動産購入申込の際に授受される買付証明書・売渡承諾書と申込証拠金
今回のアドバイスでは、不動産取引の場面でしばしば取り交わされる買付証明書・売渡承諾書と申込証拠金をテーマに取り上げさせていただきます。
相談事例
私は、現在の自宅が借家で手狭ですので、広い物件への引っ越しを考えていました。そのような折、近所でA不動産会社がマンションを分譲しており、内見したところ間取りも気に入ったので、思い切って購入を決意しました。そして、「下記物件を代金5000万円にて買受けたく本書を差入れます。」と記載されている買付証明書に署名捺印をして不動産会社の担当者に渡し、代わりに「下記物件を代金5000万円にて売渡すことを承諾します。」と記載された売渡承諾書を受け取りました。また、その際、申込のためには10万円を収めることが必要ということでしたので、その場で支払い、領収書を受け取りました。その領収書は「申込証拠金として」となっており、その下に「この申込証拠金は後日売買契約締結のとき手付の一部に充当するものとします。」と記載されていました。
そのときは本当に購入するつもりだったのですが、その1週間後、勤め先から転勤を命じられ、そのマンションに住むことができなくなりました。マンション購入をキャンセルしたいのですが、以前、契約は申込の意思表示と承諾の意思表示があれば成立し、契約書の作成は必要ないと聞いたことがあります。買付証明書と売渡承諾書の授受や10万円の支払により契約は既に成立していると判断されるのではないか心配です。果たして、キャンセルすることは可能なのでしょうか?
また、キャンセルできたとしても、申込証拠金として支払った10万円の返還を求めることはできるのでしょうか?
ここがポイント
1.買付証明書と売渡承諾書の授受により不動産売買契約は成立するか
(1)確かに契約は、申込の意思表示があり、それに対する承諾の意思表示があれば、契約書が作成されなくとも成立します。コンビニエンスストアでお弁当を買う場面では、「これください」「はい、780円です」という口頭のやりとりで、申込と承諾の合致が認められ、売買契約が成立していることに間違いはありません。
しかし、780円のお弁当と何千万円もする分譲マンションではその重みは全く異なります。「5000万円でこのマンション購入します。」「了解いたしました。ありがとうございます。」という口頭でのやり取りがあったとしても、それが真に所有権を移転させるための意思表示であるとはいい難いということです。
(2)売買契約が成立するためには、売買契約を成立させることについて、当事者の確定的な意思表示が合致することが必要です。
不動産のように高額な売買では、代金額等の基本条件について、交渉を積み重ねていくのが一般的です。仮に代金額等の基本的条件についての考えが一致していたとしても、細目にわたる具体的な条件について煮詰めていく必要もあります。また、買主としては、物件の状態や権利関係について、もう少し調査や確認をしたいという場合もあるでしょうし、購入資金を銀行からの融資で賄う場合には、その手続をとるなどの準備も必要です。
それらの条件交渉や手続の準備が煮詰まっていない段階では、「確定的な意思表示」とはいえないと考えられます。
(3)買付証明書や売渡承諾書は、このような詳細な条件交渉や事前準備などが行われる前に取り交わされ、その後に、正式な契約書の取り交わしが予定されていることが一般的です。したがって、これらの書面が取り交わされただけでは、「確定的な意思表示の合致」とはいえません。これまでの多くの判例でも、買付証明書や売渡承諾書のやり取りでは契約が成立したとはいえないと判断されています。
東京地裁昭和59年12月12日判決は「本件における売渡承諾書は売買交渉を円滑にするため既に合意に達した取引条件を明確にしたにすぎない」として契約の成立を否定しています。
奈良地裁葛城支部昭和60年12月26日判決は「本件売渡承諾書は未だ売買代金額が確定していないうえ、有効期限が付してあって、売主が買主に対し、右有効期限内に右条件について、合意が成立すれば、本件土地等の売買契約を締結する意思のあることを示す、道義的な拘束力をもつ文書にすぎない」として売買契約の成立を否定しています。
東京地裁昭和63年2月29日判決は「基本条件の概略について合意に達した段階で当事者双方がその内容を買付証明書及び売渡承諾書として書面化し、それらを取り交わしたとしても、なお未調整の条件についての交渉を継続し、その後に正式な売買契約書を作成することが予定されている限り、・・・売買契約は成立するに至っていない」としています。
東京地裁平成2年12月26日判決は「買付証明書及び売却証明書の授受は、・・・当該条件による売渡し又は買付の単なる意向の表明であるか、その時点の当事者間における交渉の一応の結果を確認的に書面化したものに過ぎないものと解するのが相当であって、これを本件不動産の売買契約の確定的な申込又は承諾の意思表示であるとすることはできない」としています。
(4)確定的な意思表示の合致が認められ、不動産の売買契約が成立したといえるためには、一般的に、①正式な契約書を作成するか、②相当額の手付金が授受されることが必要であると考えられています。
2.10万円の支払が手付金の授受とみなされることはないか
手付とは、契約を交わすときまたは、その後の代金の支払い時までに支払われる金銭のことをいいます。売買契約締結時に売買代金の1割から2割ほどの金銭が交付されるのが一般的です(詳しくは2015年1月号の「手付による解除をめぐるトラブル」をご参照ください。)。
10万円という金額は、マンションの代金額5000万円からすると0.2%にすぎませんので、売買契約の成立に必要な「相当額の手付金」というためには金額的に足りないといっていいでしょう。
また、領収書には「この申込証拠金は後日売買契約締結のとき手付の一部に充当するものとします。」と後日手付に充当されることが明記されていますが、逆に言えば10万円支払の時点では手付として支払われたものではないということとなります。
したがって、10万円の支払が手付金の授受とみなされることもないと考えられます。
3.キャンセルが認められるかの結論
以上からすると、相談事例では未だ売買契約が成立しているとはいえず、マンション購入をキャンセルすることは可能と考えられます。
4.キャンセルした上で10万円の返還を求めることはできるか
(1)相談事例では10万円は「申込証拠金」として支払われています。「申込証拠金」とは、文字どおりには、契約の成立に向けた「申込」を間違いなくしたことの証拠として支払う金銭のことです。マンションや宅地の分譲の際に分譲業者が購入申込者に支払わせるケースはよくみられます。分譲業者としては、一定の金額を支払わせることにより、冷やかし半分の申込者を排除して本当に購入意思を持っているお客さんからの申込みだけを受けたいという狙いがあります。その授受によって、その購入希望者の申込の優先順位は確保され、売主は、一方的に契約の締結を拒否することはできず、契約締結時には手付金に充当されることになります。
(2)分譲業者としては、申込者から気軽にキャンセルされては、販売活動をやり直さなければなりませんし、経費などの支出も出てきますので、購入がキャンセルされた場合には、申込証拠金は没収されることを謳っているケースもみられます。
しかし、過去には申込がキャンセルされた場合の申込証拠金の返還をめぐりトラブルが頻発したことがあり、昭和48年2月26日付で当時の建設省から次のような通達が出されました。
<土地又は建物の取引における契約申込証拠金について>
最近、業者が宅地又は建物の売買において、契約が成立しないとき申込証拠金を顧客に返還しない旨を表示する事例が見受けられ、その額も甚だしいものは10万円に達している。しかし、申込証拠金の額が申込の事務処理に通常必要とされる費用の額を大幅に上回って授受される場合は、宅地建物取引に関する著しく不当な行為にあたるものと思われるので、参考までに通知する。
「申込の事務処理に通常必要とされる費用」であればキャンセルの場合に分譲業者が没収することも出来ますが、金額的には2万~3万円程度の範囲内までと考えられています。また、実際に没収するためには、書面に没収できることが明示されていることが必要です。そのような明示のない場合には、全額を返還しなければなりません。
(3)相談事例のケースでは、没収できることが明示されてはいないようですので、10万円全額の返還を求めることができると考えられます。