明治期以降、「瓢箪山稲荷神社」は「恋の辻占」で全国的に知られ、参道は大阪近郊の行楽地として発展した。大正初期の大阪電気軌道(以下大軌、現・近鉄奈良線)の開通後は、駅から「石切劔箭神社」へ向かう参道も賑わいを見せるようになり、沿線には新たな観光施設やスポーツ施設も開業した。
大阪近郊の行楽地としての発展
「恋の辻占」で知られた「瓢箪山稲荷神社」 MAP __
「一の鳥居」前に南北に延びる「東高野街道」では、江戸時代より「辻占」が行われていた。「辻占」とは、辻に立ち、通りすがりの人々の言葉を元に占うもので、ここでは服装、態度、持ち物などを見て判じる。写真は昭和戦前期の撮影で、この「一の鳥居」は1927(昭和2)年に建立されたもの。1968(昭和43)年まで「一の鳥居」の前、写真左側に「占場(うらば)」があった。
現在も紙の「辻占おみくじ」を頒布しているほか、古来からの「辻占」も行われている。写真は東参道で、鳥居の脇に「占場」がある。左奥が「瓢箪山古墳」。
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少女歌劇団もあった「日下遊園地」MAP __
大軌が開通、「日下駅」が開業した翌年の1915(大正4)年、「天女ヶ池」とも呼ばれる農業用のため池「日下新池」の畔に、地元の人たちの手で「日下遊園地」が開設された。洋館建ての「日下温泉」をはじめ、料理旅館、少女歌劇団、ミニ動物園、貸ボートなどが設けられ、春には花見客でも賑わった。
「日下新池」の北側の畔にあった「日下温泉」の建物は、1937(昭和12)年から1942(昭和17)年まで、結核療養施設「孔舎衙(くさか)健康道場」として使用された。太宰治氏は、ここで療養していた愛読者の青年と文通による交流があった。この青年の死後、全12冊の病床日記の遺贈を受け、それを基に小説『パンドラの匣(はこ)』を執筆した。写真奥が「孔舎衙健康道場」があった場所で、現在、跡地の広場は「パンドラの丘」と呼ばれている。
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参道も賑わう「石切劔箭神社」 MAP __
「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」は、紀元前659(皇紀2)年の創建と伝えられ、平安時代の『日本三代実録』『延喜式神名帳』にも記載がある古社。江戸後期頃からは「でんぼ(腫れ物)の神さん」としても知られるようになった。写真は1956(昭和31)年頃の様子で、中央の女性は「お百度紐」で回数を数えながら「お百度参り」を行っている。
大正初期の大軌の開通後、参詣客は急増、駅から神社までの下り坂が参道となり、商店が建ち並ぶようになった。「でんぼの神さん」としての民間信仰や、この地域で江戸時代から「生駒山地」西麓の水車を利用した製薬が行われていたこともあり、昭和戦前期・戦後期を通じて、漢方薬店も多く見られた。
現在も漢方薬店が残るほか、近年は占い店が多く見られるようになり、独特の雰囲気と活気が魅力の商店街となっている。
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「大軌」が建設した「花園ラグビー場」 MAP __
「スポーツの宮様」として親しまれた秩父宮殿下が、1928(昭和3)年、大軌にご乗車された際、役員に対して沿線にラグビー専用競技場の建設を提案した。まもなく再度のご乗車で建設を促され、「大軌」は建設を決定、翌1929(昭和4)年、日本最初のラグビー専用グラウンド「花園ラグビー運動場」(当時の名称)が完成した。写真は完成当時のもの。
完成当初はメインスタンドに大鉄傘(屋根)が設置されていたが、戦時中に供出された。写真は戦後のメインスタンドで、大鉄傘がなくなっている。1992(平成4)年の大規模な改修で再びメインスタンドに鉄傘が設置された。