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大軌・近鉄沿線で発達した商工業

大正初期に大阪電気軌道(以下大軌、現・近鉄奈良線)が開通し、布施、小阪の駅前には戦前から商店街が形成された。戦後の高度経済成長期に人口が急増すると、各駅前を中心に商業の集積も進んだ。また、鋳物、金属加工など古くから行われてきた工業も高度経済成長期に発展し、東大阪市・八尾市は国内有数の『ものづくり』の街となった。


「布施駅」前の商業の発達 MAP __

現在の「布施駅」周辺の商業は、1914(大正3)年の大軌開通により集積が始まり、1924(大正13)年に大軌八木線(現・近鉄大阪線)の開通で分岐駅となると急速に発展、大阪府東部の中心的な商業地となった。写真は1937(昭和12)年頃の「広小路商店街」の様子。当時の町誌には「広小路商店街」の小売店数は127店、映画館1軒、毎月8の日に夜店、全長約380mで一日平均通行人は11,700人との記載がある。【画像は1937(昭和12)年頃】

「広小路商店街」には、1966(昭和41)年に全蓋式(道路全面を覆う)アーケードが完成したが、1977(昭和52)年に行われた道路拡幅で、商店街の東側半分は疎開道路周辺と合わせて幅広の道路(現「府道172号線」)となった。「広小路商店街」は西側半分だけがそのまま残り(現「プチロード広小路」)、東側の店舗の多くは近鉄奈良線の高架下に移転した(現「ポッポアベニュー」)。

「太平洋戦争」末期、「広小路商店街」の東側に並行する形で店舗・家屋が取り壊され疎開道路(空襲の類焼を避けるための道路)が作られ、終戦直後にはこの通り沿いを中心にヤミ市が建ち並び活況を呈した。写真は1956(昭和31)年頃の近鉄「布施駅」南口駅前の様子。写真中央付近(「近鉄観光バス」看板の左)が「広小路商店街」の入口となっていた。【画像は1956(昭和31)年頃】

近鉄「布施駅」3階ホームから望む南口駅前。中央に「プチロード広小路」の入口がある。昭和30年代には北口にも商店街が発展、「布施駅」周辺は市内最大の商業集積地となった。

賑わう「小阪本通商店街」 MAP __

小阪には戦前から商店街が形成されていた。写真は1956(昭和31)年頃の「小阪本通商店街」。当時の布施市(現・東大阪市西部)は大阪府下で堺市に次ぐ大商工都市となっており、市内には約30もの商店街があるなど、活況を呈していた。【画像は1956(昭和31)年頃】

現在は「スカイドーム小阪」とも呼ばれている。「河内小阪駅」の南側は「スカイドーム小阪」「サザンモール小阪」「サンロード小阪」「小阪さいわい通り商店街」の各商店街を中心として、面的に広がる商業地域となっている。

アーケードの入口には、2001(平成13)年に開館した「司馬遼太郎記念館」の案内もある。司馬遼太郎氏は1964(昭和39)年から1996(平成8)年に逝去するまで、小阪で暮らしていた。

小阪で生まれた「ハウスカレー」 MAP __

「ハウス食品」の前身である薬種原料店「浦上商店」は1913(大正2)年、大阪市の「松屋町筋」に創業。1921(大正10)年、カレー粉の販売委託を機に研究を進め、1926(大正15)年、「稲田食品製造所」から商標と営業権、小阪工場を譲り受け「ホームカレー」の製造・販売を開始した。その後、製品の改良を重ね売り上げを伸ばし、1928(昭和3)年、家のマークの新商標「ハウスカレー」が誕生した。写真は1935(昭和10)年頃の撮影で、建物には「ハウスカレー本舗工場」の看板が見える。昭和初期はカレーを提供する洋食店の開業やカレー粉の製造元の創業などもあり、国内にカレーが拡がった時期であった。【画像は1935(昭和10)年頃】

1941(昭和16)年、「太平洋戦争」が始まり、食糧統制のためカレーの製造・販売は各メーカーで中止に。戦後の混乱が一段落した1949(昭和24)年、8年ぶりに「ハウスカレー」の製造が再開。その後、1963(昭和38)年に「バーモントカレー」、1968(昭和43)年に「ジャワカレー」、1971(昭和46)年に「ククレカレー」など現在も人気の商品が発売された。写真はかつての小阪工場の跡地、東大阪市御厨栄町一丁目にある「ハウス食品グループ本社株式会社 大阪本社」。


東大阪・八尾の『ものづくり』

東大阪・八尾の『ものづくり』

1956(昭和31)年頃の布施のミシン工場。

東大阪市・八尾市は高度な技術力を有する中小企業を中心とする工業都市。東大阪市の工場数は全国5位、工場密度は事業所数が4千以上の都市の中で全国1位(「令和3年経済センサス活動調査」)となっている。八尾市も東大阪市と匹敵する工業都市で、近年の「工業統計調査」における「製造品出荷額等」では東大阪市を上回った年も見られる。

「生駒山地」西麓では、江戸時代以降、水車を動力とする製粉・製薬や油絞りなどの産業が発展。現在も石切地区には製薬会社が見られる。江戸後期に隆盛をきわめた「河内木綿」の生産は、明治期に衰退、代わって木綿から派生した撚糸業やボタンの加工業、歯ブラシ、ヘアーブラシをはじめとするブラシ産業などが発達した。現在も八尾市は歯ブラシの生産量で全国1位を誇っている。

奈良時代に始まる「河内鋳物」は、江戸後期~大正期にかけて、主に布施(現・東大阪市西部)で盛んになり、鉄瓶や茶釜などを生産。その後は機械関連の鋳物部品生産が中心となり、戦前は軍需産業、戦後はミシンなどの機械部品の製造が発展した。2012(平成24)年にノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥京大教授の実家も、枚岡市(現・東大阪市)のミシン部品の町工場であった。

現在の東大阪市域では、様々な金属の加工業も発達した。江戸末期に始まった伸線加工は、人力で線材を伸ばしていたが、明治期に水車へ、大正期には電気に動力が代わり、戦後は最大の地場産業として発展。この伸線加工から派生した、ねじの製造も戦時中に拡大し、昭和40年代には国内シェア10%強にまでに成長した。金網加工は明治期に農閑期の手織から始まり、明治末期以降は機械化、その後軍需用、戦後は家庭用の製造で発展。「理髪用ジャッキ」(バリカンの一種)を生産する工場は明治末期頃に増え、昭和初期以降、作業工具の製造へ発展した。

近年は、都市化の進展や円高による国際競争力の低下などもあり、東大阪市内の事業所数は1983(昭和58)年をピークに減少傾向にある。現在は、技術力の高さに加え、短納期・小ロット生産や特注品・試作品生産など、製品の高付加価値化が取り組まれている。 2009(平成21)年に打ち上げに成功した人工衛星「まいど1号」は、東大阪市の中小企業の高い技術力を結集し、工場のネットワークを活かしたものとして話題となった。


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