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華のある街へ発展

江戸時代、城下町の復興により「上町台地」北側は武家屋敷、町人地となり、「空堀」跡の南側には寺町が発展した。城下に点在する寺院がここに集められ、現在に至る寺町が形成された。「天王寺七坂」と呼ばれる崖地の風景や、町家住宅の広がる「空堀地区」など、趣きのある街並みは現在にも残されている。


江戸・亀戸の「梅屋敷」を模した梅見の名所 MAP __

江戸後期の文化年間、上本町に「梅屋敷」(梅見のための梅園がある屋敷)が造られた。江戸・亀戸で人気があった「梅屋敷」を模したもので、花見の時季には文人墨客を始め多くの人が訪れる大坂の名所となった。図は上方浮世絵を代表する絵師・長谷川貞信が『浪花百景』の中で描いた「梅屋敷」。大正時代には、「山口銀行」(のちの「三和銀行」(現「三菱UFJ銀行」)の前身の一つ)行主・山口吉郎兵衛の本邸となった。【図は1868(明治元)年頃】

現在、「梅屋敷」の跡地は複合商業施設の「上本町YUFURA」となっており、建物の周りには「梅屋敷」にちなんで梅が植栽されている。「上本町YUFURA」は、1938(昭和13)年に設立された映画館「大軌小劇場」を前身とする。「上六近鉄会館」「近鉄小劇場」などを経て2004(平成16)年に閉館、その後再開発が進められ、2010(平成22)年、難波から移転してきた「新歌舞伎座」とともに開業した。

江戸時代の「上町台地」 MAP __(瓦屋請地跡)

図は江戸時代後期の大坂の地図のうちの「上町台地」部分。台地に相当する部分に地色を加え、地図内の記述に応じて敷地を色分けしている。

赤色は「町奉行」をはじめとする各奉行所や代官所であり、役所・警察的な役割を果たしていた。「大坂城」の南・西を占める青・緑色は武家地であり、青色は「大坂城代(じょうだい)」及び「大坂定番(じょうばん)」の大名屋敷、緑色は「与力」「同心」の屋敷地であった。武家地は特に南側に拡がっているが、このあたりは、安土桃山時代の「大坂城」の「三の丸」があった場所となる。

武家地の周りを囲む黄色は町人地。江戸時代の大坂には「大坂三郷(さんごう)」と呼ばれた三つの町組があり、「上町台地」上も「大坂城」の西側は「北組」、南側は概ね「南組」(地図では一部に「北組」に属する町も見られる)に属していた。

さらに南側に拡がる橙色は寺社地。安土桃山時代、羽柴(豊臣)秀吉による「大坂城」及び城下町の建設の際、防御のために「大坂城」の南に寺町が形成された。江戸時代にも整備が進められ、現在も台地上には九つの寺町がある。

寺町と武家地の間には「瓦屋請地」の文字も見られる。この地は安土桃山時代の「大坂城」の「空堀」付近で、江戸時代には瓦造りのための土取場となっていた。【図は1806(文化3)年】

戦前の街並みが残る「空堀商店街」一帯

「大坂の陣」ののちの江戸初期、「大坂城」の再建や城下町の復興が進められたが、その際、大量に必要となった瓦の生産のため、かつての「空堀」の西側一帯の広大な土地が御用瓦師・寺島藤右衛門へ与えられ「瓦土取場」とされた。江戸前期には土取後の凹凸の地形が残る跡地に瓦師・焼物師などの職人が暮らすようになり、一部はのちに町人地となった。明治期以降も「瓦土取場」跡地一帯の凹凸地形は残り、また広大な区画に細い路地が縦横に広がる街並みのまま、住宅地として発展した。現在の「空堀通り」は、かつての「大坂城」の「空堀」とほぼ同じ場所に延びており、「空堀商店街」はその西側部分に位置する。

「空堀通り」周辺は、「大阪大空襲」での被害が少なかったこともあり、現在も古い町屋や長屋、趣のある細い路地や坂・階段が残る。写真は「空堀通り」から「瓦土取場」跡地となる凹地を望んでいる。
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写真は「空堀商店街」。現在は3つの組合からなる商店街となっており、アーケードが設置されている区間もある。近年「空堀商店街」一帯では、町家をリノベーションしたおしゃれなカフェなども増えている。
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「松屋町筋」と「上町筋」の間では、明治期以降に商業が発達した。1903(明治36)年創業の「こんぶ土居」など、現在も老舗が残る。写真は1936(昭和11)年頃、「こんぶ土居」の店先で撮影された家族写真で、左が初代店主の土居音七氏。
MAP __(こんぶ土居)【画像は1936(昭和11)年頃】

写真は現在の「こんぶ土居」の店舗。「空堀商店街」のアーケード内にある。

文化・芸術を愛好した大阪商人 MAP __(山本能楽堂) MAP __(大槻能楽堂)

「上町台地」に居を構えた大阪商人たちは、文化や芸術を愛好し、能・狂言の鑑賞や謡・舞の稽古などを行っていた。大阪における能楽公演は、神社などを利用して開催されていたが、1927(昭和2)年に「山本能楽堂」(写真)、1935(昭和10)年に「大槻能楽堂」が誕生している。【画像は1927(昭和2)年】

「山本能楽堂」は「太平洋戦争」の戦災で焼失したが、1950(昭和25)年に再建、2006(平成18)年に国の登録有形文化財となった。

写真は現在の「山本能楽堂」の外観。


大相撲の「タニマチ」の由来ともいわれる谷町の「薄病院」

「薄病院」

「タニマチ」の由来といわれる「薄病院」。【画像は1917(大正6)年頃】
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相撲や力士を援助する大相撲の贔屓筋、スポンサーの意味で使われる「タニマチ」は、「上町台地」の「谷町」に由来するという説が有力。さらに、その大阪・谷町説にも、諸説が存在する。

有力な説は1889(明治22)年、谷町に「薄(すすき)病院」を開院させた薄恕一(じょいち)氏が、はじまりというもの。怪我をした力士を無料で治療したり、幕下力士のために土俵を作って稽古をさせたり、時には小遣いを渡すなど、力士から「タニマチ」と呼ばれ慕われていたという。

「薄病院」では、医療保険制度がなかった時代、貧しい患者は無料とし、裕福な患者には多く払ってもらうことで広く医療を提供した。また、薄恕一氏は「大阪府議会議長」や「大阪市医師会長」などの要職も務めたほか、看護学校などの学校を創設、故郷(現・福岡県古賀市)に図書館を寄贈するなど、社会的な貢献も数多い。「直木賞」で知られる作家となる植村宗一(のちの直木三十五)氏は明治中期に「谷町六丁目交差点」あたりで生まれ育ったが、病弱であった直木三十五氏を、幼少期から医療・経済面で面倒を見たことでも知られる。


「大阪国技館」

「大阪国技館」【画像は1920(大正9)年頃】
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江戸時代、全国で寄進を目的とする勧進相撲が行われていた。その後、本来の寄進を目的としない相撲の興業が1702(元禄15)年、大坂の堀江で許可されると、大坂商人の後援を受けた「大坂相撲」が、「江戸相撲」をしのぐ隆盛を誇った。また、東西の交流も盛んで、力士の移籍も行われていた。明治の大横綱として知られる梅ヶ谷藤太郎氏も1867(慶応3)年に大阪から東京に移籍している。

1909(明治42)年に初代の「両国国技館」が開館するなど、東京の勢力が大阪を上回るようになると、1919(大正8)年、大阪市南区(現・浪速区)に「大阪国技館」を開館させるなど対抗するが、その後、東西相撲が合併し、1925(大正14)年には「大日本相撲協会(現「日本相撲協会」)」が誕生した。画像は「大阪国技館」。


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