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芝居・文化の都

井原西鶴や近松門左衛門が活躍した江戸時代の大坂は、劇場に庶民が集まり盛況を呈していた。中心となったのが道頓堀で、「中座」「角座」といった「道頓堀五座」が櫓を構え、集客を競った。明治以降、この「道頓堀五座」は演芸場や映画館に変わり、人形浄瑠璃は「御霊文楽座」、歌舞伎などは「大阪歌舞伎座」「大阪松竹座」で上演された。「日本三大祭」の一つ「天神祭」は、今も多くの人々を魅了している。


繁華街・道頓堀にあった「道頓堀五座」

道頓堀は大阪南部を代表する繁華街。1612(慶長17)年、「東横堀川」と「西横堀川」を結んで「木津川」に注ぐ運河の開削が始まり、工事を手掛けた安井道頓の名前から、運河に「道頓堀川」の名が付けられた。ここは江戸時代に大坂随一の遊興の地となり、「道頓堀五座」と呼ばれる劇場ができた。この五座とは、「中座」「角座」「朝日座」「弁天座」「浪花座」で、1653(承応2)年に芝居名代5棟が公認されたことに始まる。
MAP __(中座跡地) MAP __(朝日座跡地) MAP __(浪花座跡地)

写真は明治後期の「弁天座」(写真右中央)。
MAP __(弁天座跡地)【画像は明治後期】

写真は現在の「弁天座」跡地。

写真は明治中期に西洋風の劇場に改築されたのちの「角座」で、看板に活動写真(映画のこと)と書かれている。五座では歌舞伎を中心にした演劇が上演されており、やがて演芸場や映画館に形態を変えたのち、すべてが姿を消した。
MAP __(角座跡地)【画像は明治後期】

写真は現在の「角座」跡地。かつて「角座」を運営していた「松竹芸能」が上方演芸の再スタートとして、2013(平成25)年に演芸場「DAIHATSU MOVE 道頓堀角座」を開業、2019(平成31)年に心斎橋に移転し「DAIHATSU 心斎橋角座」となった。
MAP __(DAIHATSU 心斎橋角座)

関西初の洋式劇場「松竹座」が誕生 MAP __

1923(大正12)年、「松竹」の手で道頓堀に関西初の洋式劇場「松竹座」が開場した。この「松竹座」は、「大林組」の木村得三郎が設計したネオ・ルネッサンス様式の建築で、映画とともに「松竹楽劇部」(現「OSK日本歌劇団」)のレビューなどが上演されていた。【画像は昭和前期】

戦中・戦後は映画館として営業したのち1994(平成6)年に閉場、1997(平成9)年に歌舞伎を中心にした演劇の興行を行う「大阪松竹座」として再スタートした。建物の正面に広がる装飾レリーフはそのまま保存されており、大正建築の美観を伝えている。

「御霊神社」に「文楽座」が開場

「御霊神社」の創建は不詳だが、1594(文禄3)年に現在地(中央区淡路町)に遷座したとされる。この境内で1884(明治17)年、人形浄瑠璃を上演する「文楽座」が旗揚げされた。「文楽座」は、江戸時代に植村文楽軒が上演した人形芝居で、それまでは難波新地や松島新地で興行を行っていた。その後、他の人形浄瑠璃は衰退し、唯一残った「御霊文楽座」が興行を続け、「文楽」が人形浄瑠璃の代名詞となった。
MAP __【画像は明治後期】

写真は現在の「御霊神社」。

この「御霊文楽座」は1926(大正15)年に火災で焼失。四ツ橋、道頓堀と拠点を移したのち、現在は、1984(昭和59)年に中央区日本橋に開場した「国立文楽劇場」がその伝統を引き継いでいる。
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千日前の「大阪歌舞伎座」、難波の「大阪新歌舞伎座」

1932(昭和7)年、「千日前楽天地」の跡地に「大阪歌舞伎座」が誕生した。地上7階、地下1階建ての1~4階を占め、客席3,000席という歌舞伎のための大規模な劇場だった。その後、6階にはスケートリンクが設置されたが、戦後の1958(昭和33)年に閉場となり、「千日デパート」に変わった。
MAP __【画像は昭和前期】

歌舞伎の興行の場は、難波に建てられた、規模の小さい「大阪新歌舞伎座」に移り、その後は歌舞伎上演は途絶えたものの、劇場自体は2009(平成21)年まで存続した。「大阪新歌舞伎座」の跡地には旧建築の意匠を継承した外観の「ホテルロイヤルクラシック大阪」が2019(令和元)年に開業した。「大阪新歌舞伎座」の劇場は2010(平成22)年に上本町へ移転している。
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「日本三大祭」の一つ「天神祭」 夏の夜を彩る「船渡御」

明治中期の「天神祭」の「船渡御」の様子

明治中期の「天神祭」の「船渡御」の様子。
【画像は明治中期】

大阪が誇る祭りとして、京都の「祇園祭」、東京の「神田祭」とともに「日本三大祭」に数えられるのが「天神祭」である。この「天神祭」は、「大阪天満宮」が鎮座した2年後の951(天暦5)年から始まったとされ、1150年を超す歴史を持つ。6月下旬吉日から7月25日まで、約1ヶ月間にわたり繰り広げられる祭りのクライマックスは、7月25日の「本宮」の夜、「大川」を舞台に行われる「船渡御」で、本来は神霊を乗せた「御鳳輦奉安船(ごほうれんほうあんせん)」が「大川」を下り、御旅所(行宮)の地を決める行事だった。

「船渡御」は、神鉾が流れ着いた場所に祭場を設けて禊祓いを行う「鉾流神事」が起源で、祭場に船で奉迎したことによる。江戸時代の寛永年間(1624~1644年)、「雑喉場(ざこば)」に祭場(御旅所)を定めたことで、「鉾流神事」は取りやめとなり、のちに御旅所は「雑喉場」から戎島に移り、さらに明治以降は松島に変わった。

「太平洋戦争」後にこの「船渡御」が復活した際、大阪一帯の地盤沈下で「大川」の水位が上昇したために船が橋の下を通れず中止となることがあり、1953(昭和28)年からは現在のような、「大川」を遡るコースに変更された。

25日夜の「船渡御」の前、「御鳳輦」が「大阪天満宮」から天神橋北詰まで約3キロメートルの道を進む行事は、「陸渡御」と呼ばれている。「天神祭」のほかに、「生國魂神社」の「生玉夏祭」、「住吉大社」の「住吉祭」が「大阪三大夏祭」とされており、大阪の夏を彩る祭典として、人々の熱気に支えられながら、その長い歴史を伝え続けている。


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