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都市機能の整備

工業都市化が進んだ尼崎では、インフラ整備と合わせて様々な都市機能の整備も進められた。1893(明治26)年には「尼崎融通」(後の「尼崎共立銀行」)が設立。「第一次世界大戦」後、「戦後恐慌」が発生すると1921(大正10)年に「尼崎信用組合」(現「尼崎信用金庫」)が設立された。


尼崎の経済を支えた「尼崎共立銀行」 MAP __

明治10年代末、日本が企業勃興期を迎えると貯蓄と投資の場を求めて金融機関の設立が求められるようになった。尼崎町においても1889(明治22)年に「尼崎銀行」が開設。次いで1893(明治26)年に「尼崎融通」が設立され、「尼崎融通」は1895(明治28)年に「尼崎共立銀行」となった。開設当初は「本町通」の南側に店舗が置かれていたが、1923(大正12)年に通りの北側に本店ビルを新築。画像は1923(大正12)年頃の本店営業室の様子。【画像は1923(大正12)年頃】

その後、「尼崎共立銀行」は経営が悪化し、1929(昭和4)年に「山口銀行」へ吸収、旧・本店は「尼崎支店」となった。1933(昭和8)年には統合により「三和銀行」(現「三菱UFJ銀行」)の「尼崎西支店」(のち「尼崎支店」)となり、1939(昭和14)年に移転するまで、旧「尼崎共立銀行 本店」の建物が使用された。この建物は、現在も「国道43号」沿いに「本町ビル」として残っており、尼崎市内に現存する鉄筋コンクリート造建物としては最古といわれる。

「尼崎共立病院」は「尼崎新都心病院」へ MAP __

「尼崎共立病院」は1929(昭和4)年、昭和北通四丁目(現・東難波町五丁目)の「阪神国道」沿いに開院した病院。内科・小児科・外科・一般・花柳病・皮膚科・レントゲン科を診療科目とし、病床数70床の入院設備と伝染病棟を備えた市内有数の大規模病院だった。当時の建物は1945(昭和20)年6月に空襲で全焼している。【画像は1936(昭和11)年頃】

戦後の1954(昭和29)年、難波五丁目へ移転し「昭和病院」に改称。2010(平成22)年に「あまがさき緑遊新都心地区」へ新築移転し、2015(平成27)年に「尼崎新都心病院」へ改称している。写真は「尼崎共立病院」が開業した当時の場所。現在は駐車場になっている。 MAP __(尼崎新都心病院)

地域密着型の金融事業を展開した「尼崎信用組合」 MAP __

1920(大正9)年、「第一次世界大戦」後の「大戦景気」の反動である「戦後恐慌」が起こり、中小商工業者は不況に苦しむこととなった。翌1921(大正10)年、地元の資金を集め、低利で融資することを目指し「尼崎信用組合」が設立された。地元密着の金融事業を展開し、戦後1951(昭和26)年に「信用金庫法」により「尼崎信用金庫」へ改称となった。写真は1960年代の事務所外観。【画像は1960年代】

創業時の事務所は「尼信記念館」として現在の本店別館の北側に復元されている。かつては現在地の約50m南にあったが、1972(昭和47)年にこの場所へ移築された。1990(平成2)年に「尼崎市都市美形成建築物」、2011(平成23)年に「兵庫県景観形成重要建築物」の指定を受けている。

戦前には阪神間随一の目抜き通りといわれた「本町通商店街」 MAP __(五合橋交差点)

尼崎町の東本町から西本町にかけての「本町通」沿い2kmほどの区間に、「本町通商店街」があった。明治期から昭和戦前期にかけて栄えた目抜き通りで、各種小売店や飲食店、銀行、芝居小屋、映画館などが軒を連ねていた。しかし、1944(昭和19)年の建物疎開により商店街南側の大部分の店舗が撤去され、加えて戦災被害もあり商店街は消滅した。【画像は1938(昭和13)年頃】

「本町通商店街」があった通りのうち、南側(写真左手)の跡地には、戦後に「国道43号」が建設された。写真は「五合橋交差点」から西方面を撮影。旧「本町通商店街」の通りの北側が、現在の「国道43号」の北側(写真右手)にあたり、かつて「本町通商店街」沿いにあった、旧「尼崎共立銀行 本店」の建物も残る。1981(昭和56)年には「国道43号」上の高架に「阪神高速道路」も開通している。


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