古くから京都や大阪と西国(中国・四国・九州地方)を結ぶ交通の要衝として栄えてきた尼崎の中でも、近世以降の発展に重要な役割を果たしたのが「中国街道」。大阪と西宮を結ぶ街道で、京都と「大宰府」を結ぶ官道だった「西国街道」と西宮で合流した。「中国街道」の起源は明らかではないが、江戸期に入り大阪・尼崎が発展したことにより整備されたと考えられている。図は江戸期に作成された絵地図『行程記』のうち、「中国街道」の「武庫川渡し」(左端)と「尼崎城」の区間を抜粋したもの。「中国街道」のほとんどは区画整理などにより原形をとどめていないが、目的地への距離や方角を示すために設置されていた道標がいくつかひっそりと残されている。
人や物資が行き交った「中国街道」
「広済寺」と近松門左衛門MAP __(広済寺)MAP __(近松記念館)
尼崎市久々知(くくち)にある日蓮宗の寺院「広済寺」は、江戸時代を代表する劇作家・近松門左衛門の墓があることで知られる。「広済寺」はもともと957(天徳元)年に源満仲が勧請した禅宗の寺院だったが、1333(元弘3)年に戦災を被り長らく荒れ寺として放置されていた。これを日昌上人が1714(正徳4)年に再興し、日蓮宗の寺院とした。
1653(承応2)年に福井で生まれた近松門左衛門(本名・杉森信盛)は、十代半ばに京都に移り住み、文学や芝居に親しんだ。京都で古浄瑠璃(義太夫節誕生以前の流派)の座である「宇治座」を創設した宇治加賀掾(うじかがのじょう)のもとで作家修業を始めると、1683(天和3)年に最も古い近松作品と認められている『世継曽我』が初演された。その後も、現在でも親しまれている数多くの作品を執筆している。
近松は1706(宝永3)年に京都から大阪へ移り、寺島(現・大阪市西区千代崎)にある船問屋・尼崎屋吉右衛門の家にたびたび逗留していた。尼崎屋吉右衛門の次男として生まれたのが「広済寺」を再興した日昌上人で、このため親交があったとされている。1716(享保元)年に近松の母が亡くなった際も、「広済寺」で法要を行っている。「広済寺」境内には近松の墓もあり、1966(昭和41)年に国指定史跡となった。
また、本堂の裏には「近松部屋」と呼ばれる六畳二間、奥座敷四畳半の建物が明治末期まであり、そこで執筆活動をしていたと伝えられている。近松の遺品は「広済寺」に隣接する「近松公園」内にある「近松記念館」(1975(昭和50)年開館)に展示されている。