このまちアーカイブス INDEX

鉄道・道路・空路の開業と発展

「東海道」が通り、古くから人馬の往来が活発だった大森・蒲田周辺。1872(明治5)年に日本初の鉄道が開通した4年後に「大森駅」は開設された。明治後期には京浜電気鉄道(現・京急本線)も開通。大正期から昭和戦前期にかけては国道や「東京飛行場」(現「羽田空港」)も整備され、様々な交通の要衝として発展していく。


大森村ではなく新井宿村に開業した「大森駅」

1872(明治5)年、日本初の鉄道が新橋横浜間で開通した。当初の中間駅は品川・川崎・鶴見・神奈川の4駅だったが、品川~川崎間となる新井宿村には保線のための詰所があり、ここでお雇い外国人や日本人の作業員が乗り降りしていたこともあり、1876(明治9)年、この詰所を「大森駅」として開業した。大森村は1km以上離れた海沿いの隣村の地名であったが、江戸時代から「東海道」沿いの地名として、また海苔の産地として知名度が高かったため駅名に採用された。

開業した当時、「大森駅」の周囲は農村で乗降客は少なかったが、明治30年代ころから急増していった。写真は明治後期の「大森駅」を南側から撮影したもので、電車線(現・京浜東北線)はまだ敷設されていない。左手に「八景園」がある高台が見える。【画像は明治後期】

写真は「入新井西公園」に静態保存されているSL「C57」から「大森駅」方面を撮影。
MAP __(撮影場所)

開業以来、東側にのみ駅舎(のちの「海岸口」、現「東口」)が設けられていたが、駅西側の山王一帯が住宅地として発展すると、その住民らは西側の改札の設置を要望。1913(大正2)年、跨線橋が西へ延長され「山王口」(現「西口」)が開設された。翌1914(大正3)年に電車線の京浜線(現・京浜東北線)が開通しその停車駅となり、1930(昭和5)年までに列車線(現・東海道本線)は全て通過するようになった。写真は大正期、南側から望んだ「大森駅」で、右の建物が「海岸口」の駅舎、右の線路は引き込み線で、左の線路が列車線の下り線、左奥が列車線のプラットホームと思われる。
MAP __(海岸口駅舎跡)【画像は大正期】

「大森駅」の現在の駅舎は1984(昭和59)年に完成している。「海岸口」の駅舎があった場所は1984(昭和59)年に駅ビル「大森プリモ」の一部となり、2005(平成17)年に「アトレ大森」へリニューアルされている。

「大森駅」が終点だった京浜電気鉄道

1899(明治32)年1月、京都電気鉄道名古屋電気鉄道に次ぐ日本で3番目の電車として、大師電気鉄道が六郷橋~大師間(現・京急大師線)で開業した。同年4月に「京浜電気鉄道」(現「京浜急行電鉄」)へ改称。1901(明治34)年に「蒲田駅」「八幡駅」(現「大森海岸駅」)を通り官営鉄道(現・JR京浜東北線)「大森駅」へ延伸された。その後1904(明治37)年に「八幡駅」から分岐して品川方面へ延伸された際、「八幡駅」は「海岸駅」へ改称、海岸~大森間は大森支線となった。

写真は明治後期、「大森駅」付近を走る京浜電気鉄道の車両。正確な撮影場所は不明ながら、軌道は道路の南側に位置していたため、大森から海岸方面へ向かっているものと考えられる。【画像は明治後期】

大森支線は1937(昭和12)年に廃止された。軌道が敷設されていた道路は、現在は拡幅され「大森海岸通り」となっている。
MAP __(撮影地点)

路線図は1935(昭和10)年に発行された『羽田穴守海の家』のリーフレットで、大森支線が描かれている。「京浜電気鉄道」は「穴守稲荷」の北側一帯で観光開発を行っており、1909(明治42)年に「羽田運動場」、1912(明治45)年に「羽田遊園地」(「穴守遊園地」とも呼ばれた)を開設、1911(明治44)年から夏季に「羽田穴守海の家」を開くようになった。
MAP __(羽田穴守海の家)【図は1935(昭和10)年】

かつて大森支線が敷設されていた「大森海岸通り」沿いの一角に、「沿道の歴史」の案内板と線路の敷石が設置されている。
MAP __

東京と横浜中心部を結ぶ大動脈「京浜国道」 MAP __

1876(明治9)年の「太政官布告」により、全国の道路が国道・県道・里道に定められ、国道という言葉が初めて使われた。「一号国道」は「日本橋」から「伊勢神宮」に至る路線で、その大部分の区間は江戸時代に整備された旧「東海道」であった。大正期に入り自動車が一般に普及するようになると「内務省」(1947(昭和22)年廃止)は国道の改修工事を計画。1918(大正7)年に東京~横浜間を「京浜国道」として着工し、1927(昭和2)年に荏原郡品川町(現・品川区)「八ツ山橋」から「六郷橋」までの区間の工事が完了。幅員12間(約22m)の近代的な道路となった。写真は改修工事後、「六郷橋」付近の「京浜国道」。【画像は1937(昭和12)年頃】

「京浜国道」の渋滞緩和対策として1936(昭和11)年から「新京浜国道」の整備も進められ、1951(昭和26)年に完成。現在は、写真の旧「東海道」沿いの道が「国道15号」に指定され「第一京浜国道」、「新京浜国道」が「国道1号」に指定され「第二京浜国道」と呼ばれている。

「東京飛行場」として始まった「羽田空港」

航空草創期の1910年代、「東京湾」の遠浅海岸や埋め立て地を利用して飛行機の発着が試され、1917(大正6)年に羽田町の干潟に「日本飛行学校」が創設された。「羽田遊園地」の北側の埋め立ては1926(大正15)年から1927(昭和2)年にかけて行われており、1930(昭和5)年、「逓信省航空局」(現「国土交通省」)がこの土地を購入し飛行場の建設に着手、翌年8月に「東京飛行場」を立川より移転・開設した。総面積は約53ha、滑走路は300m×15mの1本のみだった。開港当初の頃から通称では「羽田空港」と呼ばれていた。

写真は1937(昭和12)年頃の「東京飛行場」で、右に写るのは「日本航空輸送」(1938(昭和13)年解散)の格納庫。1938(昭和13)年から1939(昭和14)年にかけて総面積を約73haに拡張し、滑走路も2本となった。
MAP __(格納庫跡地)【画像は1937(昭和12)年頃】

1945(昭和20)年、終戦に伴い「GHQ」へ接収され「ハネダ・エアベース」へ改称、拡張のため強制退去も行われた。1952(昭和27)年に大部分が返還されると「東京国際空港」へ改称(通称は引き続き「羽田空港」)。1964(昭和39)年に滑走路は3本となった。1978(昭和53)年に「成田空港」が開港するとほとんどの国際線は成田へ移転となったが、2000年代に入ると再国際線化が検討されるようになり、2010(平成22)年に4本目の滑走路とともに「国際線ターミナル」が供用開始、多くの国際線定期便が就航となった。現在の総面積は約1,516haで、開港当初の約28倍以上にまで拡張されている。
MAP __


次のページ 「京浜運河」と「平和島」


MAP

この地図を大きく表示



トップへ戻る