「江戸(東京)湾」及び「目黒川」の河口の港町でもある品川は、交通の要衝として古くより栄えた。律令時代には、武蔵国の国府・府中の外港となった(品川と府中を結んでいた古道は、現在「品川みち」などと呼ばれる)。江戸期には「東海道」最初の宿場町として賑わい、明治に入ると日本で最初の鉄道駅が設置され、旧「東海道」は「国道1号」(現「国道15号」)として幹線道路となった。昭和初期までには港、運河、水上飛行場も整備された。
交通の要衝としての歴史
日本で最初に開業した駅「品川停車場」
1877(明治10)年、アメリカの動物学者、エドワード・シルベスター・モースは、貝の研究のために来日した。翌日、「文部省」へ訪問するために官営鉄道で横浜から新橋へ向かうが、その途中、「大森停車場」を過ぎて線路西側の崖に貝塚を発見。その後、モースにより発掘調査が行われ、「大森貝塚」(発掘当時は「大森介墟(かいきょ)」と呼ばれた)は日本考古学上、最初の遺跡となった。図は1879(明治12)年に出版された発掘報告書『大森介墟編』に掲載されている発掘風景。
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京浜電鉄の品川までの延伸
大師電気鉄道は1899(明治32)年に川崎・大師間で開業し、同年、京浜電鉄へ改称。その後、品川方面への延伸を進め、1904(明治37)年に「品川停留場」(現「北品川駅」)まで開通した。当時の官営鉄道の「品川停車場」(1885(明治18)年に現在地付近に移転済であった)までは離れていたが、「八ツ山橋」を挟んで路面電車(のちの東京市電・都電)の「八ツ山停留場」があり、歩いて橋を渡って乗り換え、都心方面へ向かうことができた。写真は1910(明治43)年頃の京浜電鉄「品川停留場」。写真左奥、駅に隣接する洋館は洋食の「富貴(ふうき)軒」。
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現在の立会川の「天祖・諏訪神社」付近の様子。南浜川の鎮守「天祖神社」と北浜川の鎮守「諏訪神社」は「立会川」を挟んで南北に並んであったが、1965(昭和40)年に合祀された。京急は高架化されている。
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「東海道」から発展した「京浜国道」
江戸期の「東海道」は、1876(明治9)年に国道として指定され、1885(明治18)年に番号が付与されると東京・横浜間は「国道1号」(「京浜国道」)となった。大正期になると「京浜国道」の交通量が増えたため、「八ツ山橋」から横浜まで改築されることになり、東京府内の区間は1920(大正9)年に着工、1927(昭和2)年に完成した。「八ツ山橋」から鈴ヶ森の区間は、京浜電鉄の西側に並行して新しいバイパスが建設された。写真は昭和戦前期、「品川神社」の「富士塚」から北東方面を望んでおり、右下の通りが改築された「京浜国道」。右の大きい屋根の建物は「法禅寺」。
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「京浜国道」の改築では、京浜電鉄との立体交差化も進められた(「八ツ山橋」付近は併用軌道となった)。写真は鈴ヶ森の立体交差部分に建設された「鈴ヶ森駅」で、手前が「京浜国道」。「八ツ山橋」からここまで、「京浜国道」は京浜電鉄の西側を通っているが、この立体交差で東西が入れ替わり、「京浜国道」は「旧東海道」と合流し大森海岸方面へ向かう。「鈴ヶ森駅」は1904(明治37)年の京浜電鉄延伸開通以来の駅で、「京浜国道」の建設による京浜電鉄の高架化に伴い1925(大正14)年に高架上にプラットホームが置かれた。
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日本初の「エアガール」が飛び立った「中島大井飛行場」 MAP __
「中島大井飛行場」は「中島飛行機」が1927(昭和2)年に設置した水上飛行場。滑走台、格納庫といった設備があり、水上飛行機の試験などが行われた。写真は1931(昭和6)年頃の様子で、格納庫から海上方面を望んでいる。