1896(明治29)年、欧米視察で臨海埋立地に巨大な工業地帯が形成されていることを知った実業家・浅野総一郎氏は、翌年、日本へ戻ると京浜間の臨海工業地のための埋め立てと工業港・運河の建設を計画した。東京市・東京府は許可しなかったが、神奈川県の鶴見・川崎において許可を得て、1913(大正2)年に会社を設立し埋め立て(「浅野埋立」と呼ばれる)が着工となった。「関東大震災」後、帝都復興に併せて東京府下でも工業地の造成と「京浜運河」建設が行われることになり、その計画は「内務省」の「港湾調査会」が行い、1927(昭和2)年に決定となった。
漁業や海水浴場で賑わいを見せていた大森の海岸は、昭和10年代、戦時体制下を迎えると埋め立てが始まり、戦時中には俘虜収容所が置かれた。戦後に「平和島」となり、競艇場や遊園地を併設した温泉などが開設され、レジャーランドとしての様相を呈していく。