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岡山の教育、藩校から続く歴史

池田家により置かれた藩校の系譜は「岡山中学」から「岡山一中」に受け継がれる。「第六高等学校」とともに、岡山の教育を象徴する存在である。このページでは岡山の教育・文化拠点である「岡山県立図書館」についても紹介する。


「岡山城」の城郭に「岡山県岡山尋常中学校」 MAP __(撮影地点)

池田光政が1666(寛文6)年に「岡山城 西ノ丸」に「仮学館」を創設、1669(寛文9)年に西中山下(現・蕃山町)に移し「学校(国学)」とした。廃藩置県後は「普通学校」と改称、士族以外の受け入れを始めたが、やがて廃校となり、私塾「遺芳館」に継承される。一方、師範学校である「温知学校」が1874(明治7)年6月に開校。8月には「予科」に員外生として、教員志望でない生徒の入学を認め「遺芳館」の幼年生が多く移籍した。

1886(明治19)年に「岡山県尋常中学校」、1895(明治28)年には「岡山県岡山尋常中学校」と改称。上写真は1896(明治29)年に「岡山城」の城郭内に完成した新築間もない頃の校舎。奥には天守閣が見える。【画像は1897(明治30)年頃】

現在、「岡山城」の天守閣の周りは「烏城公園」として整備されている。

その後「中学校令」が改正され1899(明治32)年「岡山県岡山中学校」となり、1921(大正10)年「岡山県第二岡山中学校」(現「岡山県立岡山操山高等学校」)の設立にともない「岡山県第一岡山中学校」へ校名が変更された。写真は1930(昭和5)年11月の「岡山一中」の様子。陸軍特別大演習の際に軍用機で撮影したものとみられる。【画像は1930(昭和5)年】

「第六高等学校」の跡地に移転した「岡山朝日」 MAP __

1949(昭和24)年「岡山県立岡山第一高等学校」(旧「岡山県第一岡山中学校」)と「岡山県立岡山第二女子高等学校」が統合し「岡山県立岡山朝日高等学校」となった。1950(昭和25)年に、国富(現・中区古京町)の「第六高等学校」跡地へ移転を始め、1953(昭和28)年に完了した。校舎内には「六高」時代の書庫、柔道場が保存され、「六高記念館」が設置されている。【画像は1953(昭和28)年】

岡山を代表する名門校、「岡山県立岡山朝日高等学校」。2014(平成26)年に創立140周年を迎えた。

「第六高等学校」は「岡山大学」に MAP __

「第六高等学校」は1900(明治33)年に設立。広島との誘致合戦の末に誕生した。「高等学校令」に基づく新規に設立された最初の高等学校で、中国地方で2番目の高等学校であった。戦後は「陸軍第17師団」の跡地に移転し、新制の「岡山大学」に発展した。「六高」跡地は「岡山県立岡山朝日高等学校」が利用することとなる。写真は明治後期のもの。【画像は1907(明治40)年頃】

写真は大正期の「六高」の正門。【画像は大正期】

「後楽園」に次ぐ「亜公園」とシンボルタワーの「集成閣」 MAP __

『岡山が誇る「後楽園」に次ぐ公園』として、命名されたのが、現在の北区天神町にあった「亜公園」。1892(明治25)年、材木商・片山儀太郎が東京・浅草の「凌雲閣(十二階)」をまねて建てた六角形の七階楼「集成閣」を中心に、劇場や旅館などを配したテーマパークのような存在だった。しかし、片山儀太郎が借財を作ったために、この公園はわずか5年ほどで閉園となった。写真右には、上之町の通りが写っており、当時の表町の北端と見られる。【画像は明治後期】

「甚九郎稲荷」には、「亜公園集成閣」跡を示す碑が残されている。かつて「亜公園」があったあたりには、2020(令和2)年に「RSK山陽放送」の「RSKイノベイティブ・メディアセンター」が完成、翌2021(令和3)年に本社が移転してきている。

「亜公園」の「集成閣」を改修・利用した「岡山県立戦捷記念図書館」 MAP __ MAP __(現在の場所)

「日露戦争」勝利後の1905(明治38)年、岡山では図書館建設の気運が起こり、前述の「亜公園」のシンボルタワーであった「集成閣」の1~3階部分を改修し「戦捷(せんしょう)記念」の名を冠した県立図書館の建設が決まった。図書館は1906(明治39)年に設立され、1908(明治41)年に開館となる。池田家からの古典籍の寄贈、「岡山中学」からの資料の移管などにより、約2万冊の書物が集まった。幾度かの改称、移転を経て後に「岡山県立図書館」へと発展する。【画像は大正期】

2004(平成16)年、県庁前の「岡山市立丸之内中学校」の跡地に、日本最大級の規模を有する「岡山県立図書館」が誕生した。


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