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瀬戸内の物産と観光、「岡山ブランド」の歴史

岡山では、江戸時代にい草栽培が、明治以降は果樹栽培も盛んになった。このページでは「瀬戸内海」を望む景勝地として知られる「鷲羽山」や戦後の子どもたちを元気づけた「カバヤ文庫」についても紹介する。


い草を加工した花莚 明治時代には代表的輸出品に

現在の倉敷市では江戸時代に干拓が行われ、い草や綿の栽培が盛んとなり特産品となった。特にい草を加工した「花莚(はなむしろ)」は、1878(明治11)年、磯崎眠亀が錦莞莚織機を完成させ、国の輸出10品目のひとつに成長し、世界各国に向けて輸出されるようになった。写真は大正期の、い草の刈り取りの光景。【画像は1918(大正7)年】

写真は昭和初期の、「花筵」を織っている様子。【画像は1930(昭和5)年】

「瀬戸内海国立公園」の景勝地「鷲羽山」 MAP __

「下津井港」の北に位置し、「瀬戸内海」を見下ろす標高133mの「鷲羽山」。1934(昭和9)年に指定された日本初の国立公園である「瀬戸内海国立公園」の景勝地のひとつとして、全国に知られる存在となった。名称は「鷲が羽根を広げた」ような山の形に由来し、東の「播磨灘」から西の「水島灘」まで250度に渡る展望は、徳富蘇峰が『内海の秀麗ここに集まる』と絶賛した。【画像は昭和戦後期】

「瀬戸内海」を見下ろす絶好の景勝地、「鷲羽山」の展望台より。

子どもたちに笑顔を届けた、宣伝カーと「カバヤ文庫」

岡山市に本社を置く「カバヤ食品」の創業は、戦後間もない1946(昭和21)年のこと。キャラメル・キャンディの製造・販売から始まり、1951(昭和26)年に本格的な菓子メーカーとなった。カバの形をした宣伝カー「カバ車」を全国で走らせ、宣伝と販売を行い、「カバヤキャラメル」の点数券を集めるともらえる、おまけの「カバヤ文庫」は子どもたちの人気を集めた。甘いキャラメルと「カバヤ文庫」は戦後復興期から高度成長期の子どもたちに大きな夢と笑顔を届けた。その「おいしい夢をカタチにしたい」という想いは現在に至るまで受け継がれている。【画像は1955(昭和30)年】

復刻された「カバ車」の「クッキーくん」と「チョコちゃん」。

写真は点数券が付いていた「カバヤキャラメル」。【画像は1955(昭和30)年】

写真は、大人気となったおまけの「カバヤ文庫」。約160種2,500万冊が作成された。【画像は1955(昭和30)年】


フルーツ王国・岡山 果樹栽培の歴史

昭和戦前期に、岡山市産業課より発行されたパンフレット『観光のをかやま』

昭和戦前期に、岡山市産業課より発行されたパンフレット『観光のをかやま』

白桃やマスカットといった高級フルーツの栽培で知られている岡山。温暖な気候が果樹栽培に適していることと、明治時代に始まった、先人たちの改良の努力によって歴史が築かれた。

1873(明治6)年、渡辺淳一郎が東京の「勧業寮試験所」からモモの苗木2本を取り寄せ、栽培を開始した。その後も、小山益太が1895(明治28)年、新品種「金桃」を生み出し、門下生だった大久保重五郎は、1901(明治34)年に酸味が少なく甘みの強い「白桃」を誕生させた。従来に比べ日持ちにも優れており、1926(昭和元)年には東京への初出荷も果たした。品種改良はさらに続き、1932(昭和7)年には西岡仲一による「清水白桃」が誕生した。

一方のブドウは、山内善男と大森熊太郎が1875(明治8)年に官有林の払い下げを受け、栽培が始まった。2人はアメリカ系の苗木を導入して栽培を試みたが成功せず、兵庫県の「播州葡萄園」から、ヨーロッパ系のブドウを持ち帰り、1886(明治19)年からガラス温室で栽培を試みた。試行錯誤の末、1888(明治21)年に「マスカット・オブ・アレキサンドリア」の収穫に成功、この「マスカット」は現在も岡山のブドウの代名詞となっている。



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