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工業の発達

「王子製紙」は明治初期に実業家・渋沢栄一が中心となり設立した会社で、政府の「印刷局」も隣接して誕生し、王子の工業的な発展のきっかけとなった。赤羽には「日本製麻(せいま)」の工場が誘致されて以降、繊維産業が発達した。


「洋紙発祥の地」となった王子

1873(明治6)年、実業家・渋沢栄一が中心となり「三井組」(のちの「三井財閥」)などの出資により「抄紙(しょうし)会社」が設立された。その工場の場所として、水質の良い「千川上水」の分水が幕末に引かれ、東京の中心地にも近く、原材料や製品の運搬に「隅田川」に通じる「石神井川」の舟運が利用できるなどの理由から王子が選ばれ、1875(明治8)年に工場(のちの「王子工場」)が完成した。その翌年、「製紙会社」へ改称、1893(明治26)年に「王子製紙」となった。写真は明治中期の「製紙会社」の工場(のちの「王子製紙 王子工場」)。
MAP __【画像は明治中期】

終戦後、「王子製紙」は「GHQ」の指令により財閥解体の対象となり、1949(昭和24)年に「十條製紙」「本州製紙」「苫小牧製紙」に分割。「王子工場」(1943(昭和18)年より休止)の土地と「十條工場」(後述)は「十條製紙」に引き継がれた。戦後、「十條製紙」は、「王子工場」の跡地を社宅などに使用したのち、1972(昭和47)年にボウリング場などが入る複合施設「十條ボウル王子センター」(現「サンスクエア」)を開業した。「十條製紙」は1993(平成5)年、「山陽国策パルプ」と合併し、現在は「日本製紙」となっている。写真は現在の「サンスクエア」。

写真は1932(昭和7)年頃の「王子製紙 王子工場」で、「飛鳥山」から工場を望んでいる。「王子製紙」は、1933(昭和8)年に「富士製紙」「樺太工業」と合併し、国内の紙生産量のシェア約8割を占める企業となった。【画像は1932(昭和7)年頃】

写真は現在の様子で、鉄道に架かる橋は1925(大正14)年に竣工した「飛鳥山下跨線人道橋」で、過去の写真から変わっていない。「飛鳥山下跨線人道橋」には、1887(明治20)年のドイツ製レールが再利用されている。
MAP __(飛鳥山下跨線人道橋)

「王子製紙」は明治中期頃から全国に工場を建設、および買収などで事業を拡大していった。十条には、1910(明治43)年より「印刷局 抄紙部」の「十條分工場」(郵便葉書用紙などを製造していた)が操業していたが、「王子製紙」は、1916(大正5)年にここを買収し「十條工場」とした。図は1936(昭和11)年頃の「十條工場」。工場ができた当初は「隅田川」につながる「神谷堀」(写真右奥)が整備され、水運に利用されていたが、1927(昭和2)年、「十條工場」の貨物線(写真左奥の鉄道、のちの北王子線)が開通した。写真右手前の路面電車は王電赤羽線(のちの都電赤羽線)で、写真左手前の線路は貨物線(須賀線・1971(昭和46)年廃止)となる。
MAP __【図は1936(昭和11)年頃】

戦後、「十條工場」は「十條製紙」に引き継がれたのち、1973(昭和48)年に閉鎖となった。跡地のうち、東側には、「日本住宅公団」(現「UR」)の「王子五丁目団地」(写真)が建設され、1976(昭和51)年に入居開始になった。敷地西側は倉庫として引き続き使用され、貨物線(北王子線)も残されていたが、2014(平成26)年に廃止、跡地は大型マンション「ザ・ガーデンズ東京王子」(2018(平成30)年完成)などとなった。「神谷堀」は1977(昭和52)年に埋立てが完了した。


王子にはない、現在の「王子製紙」

終戦後、「王子製紙」は「GHQ」の指令により財閥解体の対象となり、1949(昭和24)年に「十條製紙」「本州製紙」「苫小牧製紙」に分割。北区の「王子工場」(1943(昭和18)年より休止)の土地と「十條工場」は「十條製紙」に引き継がれた。

1970(昭和45)年頃の「紙の博物館」

1970(昭和45)年頃の「紙の博物館」。現在、跡地は「王子駅南口バスのりば」となっており、その地下に「首都高速中央環状線」が通る。
MAP __【画像は1970(昭和45)年頃】

現在の「紙の博物館」

写真は現在の「紙の博物館」。隣接する「北区飛鳥山博物館」「渋沢史料館」とともに「飛鳥山3つの博物館」と呼ばれる。
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分割されることになった旧「王子製紙」3社は、発祥の地である王子を記念して「財団法人 製紙記念館」を設立、1950(昭和25)年、空襲から焼け残った旧「王子工場」の建物を利用し「製紙記念館」を開館した。1953(昭和28)年に「製紙博物館」、1965(昭和40)年に「紙の博物館」へ改称。その後、「首都高速中央環状線」の建設により移転することとなり、1998(平成10)年、「飛鳥山」公園内に移転・開館した。

ちなみに、「苫小牧製紙」は1952(昭和27)年に「王子製紙工業」(のち二代目「王子製紙」)へ改称、「王子」の旧社名を冠するようになったが、北区(王子・十条)には工場などはなかった。1968(昭和43)年、初代「王子製紙」の後継会社「十條製紙」と二代目「王子製紙」、「本州製紙」は合併を計画したが実現しなかった。

「洋紙発祥之地」の碑

「王子製紙 王子工場」の跡地は「サンスクエア」となっており、その前に「洋紙発祥之地」の碑がある。厳密には、「抄紙会社」での洋紙の製造は、国内で三番目の開始(他社で1年ほど前から製造されていた)となるが、生産高や、その後の発展から見て、王子が実質的な「洋紙発祥の地」として、1953(昭和28)年に建立された。
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その後、1996(平成8)年に二代目「王子製紙」と「本州製紙」が合併し、三代目「王子製紙」が誕生しているが、前述のように旧「王子工場」「十條工場」を引き継いだのは「十條製紙」(現「日本製紙」)であり、現在、北区(王子・十条)に関わりを残す会社は、現「王子製紙」の「王子グループ」ではなく、「日本製紙グループ」となっている。


「抄紙会社」の一角に設置された「抄紙局」にはじまる「国立印刷局 王子工場」

1871(明治4)年、明治政府は、紙幣の発行などを行う「大蔵省紙幣司」(のち「大蔵省紙幣寮」「大蔵省紙幣局」「大蔵省印刷局」「印刷局」へ改組・改称)を創設したが、当初、紙幣の製造は、ドイツ・アメリカに委託していた。その後、紙幣の国産化を目指すこととなり、1875(明治8)年、王子の「抄紙会社」の一角に、「大蔵省紙幣寮」の製造部門「抄紙局」(のち「抄紙部」へ改称)を設置し工場を建設、翌年、操業を開始。1877(明治10)年に国産第1号紙幣となる「国立銀行紙幣一円」が発行された。写真は1907(明治40)年頃の「印刷局 抄紙部」の正門。
MAP __【画像は1907(明治40)年頃】

「印刷局」は、その後、改組・改称を経て1952(昭和27)年に再び「大蔵省印刷局」となり、2001(平成13)年に「財務省印刷局」、2003(平成15)年から独立行政法人の「国立印刷局」となった。「抄紙局」からの歴史を引き継ぐ「国立印刷局 王子工場」(写真)では、現在は郵便切手や証券類の製造を担っている。敷地の西側部分は、北区が取得の上「北区役所」の新庁舎が建設される予定になっており、現在は基本設計などが進められている。

「印刷局」の工場は明治初期より大手町にもあったが「関東大震災」で被災、「農事試験場」より敷地の一部移管を受けて、1931(昭和6)年、滝野川町に「滝野川分室」を開設した。現在は「国立印刷局 東京工場」となっている。
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「関東酸曹 王子工場」は「豊島五丁目団地」へ MAP __

1885(明治18)年、「印刷局抄紙部 製薬課」の工場が現「京北倉庫」のあたりに開設され、改組・改称を経て、1892(明治25)年に「王子製造所」となった。1895(明治28)年、硫酸事業は陸軍へ移管され「板橋火薬製造所 王子製薬場」に、曹達(ソーダ)事業は同年に民間会社として設立された「王子製造所」に払下げられ、翌年「関東酸曹(さんそう)」に改組・改称、翌1897(明治30)年、現「豊島五丁目団地」の地に新工場(「王子工場」)が完成、硫酸と曹達の生産を開始した。1923(大正12)年、「関東酸曹」は「大日本人造肥料」に合併され、1937(昭和12)年、「日産化学工業」に改称された。写真は大正後期~昭和前期、「大日本人造肥料」時代の「王子工場」。【画像は大正後期~昭和前期】

「日産化学工業」(2018(平成30)年より「日産化学」)の「王子工場」は、戦後も生産を続けたのち、1969(昭和44)年に千葉県の「袖ケ浦工場」へ移転。跡地には「日本住宅公団」(現「UR」)により「豊島五丁目団地」(写真)が建設され、1972(昭和47)年に入居開始となった。

蓄電池機関車が使用されていた須賀線 MAP __(須賀駅跡地)

1926(大正15)年、「大日本人造肥料」(のちの「日産化学工業」)の専用鉄道が開通、翌1927(昭和2)年に国有化され、東北本線の貨物支線となった。終点の地名・須賀(すか)から通称・須賀線と呼ばれた。須賀線と同時期に王電赤羽線(のちの都電赤羽線)も開通しており、「王子製紙 十條工場」の南東側で平面交差することとなった。須賀線は当初は非電化であったが、沿線に弾薬庫があることから引火の危険性が考慮され、蒸気機関車ではなく蓄電池機関車が採用された。

写真は昭和初期、「大日本人造肥料」の構内に停まる蓄電池機関車「AB10形」と貨車。須賀線は1931(昭和6)年に電化となり、「AB10形」は電気機関車に改造され「EB10形」となった。【画像は昭和初期】

1969(昭和44)年に「日産化学工業」が移転したこともあり、1971(昭和46)年に須賀線は廃止された。都電赤羽線との平面交差は廃止されるまで続いていた。須賀線で活躍した「EB10形」の電気機関車は、廃止の翌年、1972(昭和47)年に国鉄から府中市へ貸与され、現在に至るまで「市民健康センター」(2008(平成20)年に「郷土の森公園」へ改称)の「交通遊園」で静態保存・公開されている。
MAP __(EB10形の保存場所)

赤羽の東口発展のきっかけとなった「日本製麻 赤羽工場」

赤羽周辺には、大正期から昭和初期にかけて、繊維関係の工場が多く立地するようになり、街も賑わうようになった。そのきっかけとなったのが、1914(大正3)年の「日本製麻 赤羽工場」の開設。当時、「赤羽駅」の東側には工場がなかったため、地元住民が熱心な誘致運動を行い、誘致に成功した。

写真は1918(大正7)年頃の撮影。工場は田圃の中に土を盛って建設され、南側(写真外)には土を取った際にできた広大な池もあった。近代的な工場で、最盛期には2千人以上の工員が働いており、敷地内には社宅が整備され、多くの工員が暮らした。「日本製麻」は大正期に全国に工場を設けるなど急成長したが、1927(昭和2)年、不況の影響から「帝国製麻」に合併され、「赤羽工場」は倉庫として使用されることになった。
MAP __【画像は1918(大正7)年頃】

戦時中の空襲で旧「赤羽工場」の西側を焼失。戦後、旧「赤羽工場」の東側は「日本染色」の工場となった。また、旧「赤羽工場」の北側の道沿いには商店が建ち並ぶようになり、その後「赤羽スズラン通り商店街」へと発展した。現在の「赤羽公園」「赤羽郵便局」一帯は南側にあった池の跡地にあたる。「日本染色」の工場は1969(昭和44)年に移転し、同年跡地に「赤羽ショッパーズプラザ」(現「ダイエー 赤羽店」)が開業した。現在「赤羽スズラン通り商店街」は、「LaLaガーデン」の愛称でも親しまれている。

戦時中の空襲で焼失した旧「赤羽工場」の西側の一画には、1949(昭和24)年に「カトリック赤羽教会」が建設された。写真は昭和20年代、「赤羽駅」のホームから東口方面を撮影した写真で、左奥に「カトリック赤羽教会」が写る。このほか旧「赤羽工場」の西側の跡地には映画館、銀行などが建設された。
MAP __【画像は昭和20年代】

写真は「カトリック赤羽教会」前からの撮影。現在は「赤羽駅」のホームや駅前から「カトリック赤羽教会」を見ることはできない。

写真は1958(昭和33)年の「赤羽スズラン通り商店街」で、七夕飾りが見える。
MAP __【画像は1958(昭和33)年】

1997(平成9)年、「赤羽スズラン通り商店街」に東京で最大という天蓋アーケードが完成した。写真は現在の「赤羽スズラン通り商店街」(「LaLaガーデン」)。


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