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姪浜と「愛宕山」の歴史

江戸時代、「唐津街道」の宿場町「姪浜宿」は、「博多湾」に面し港を擁することから、商業や漁業、製塩業なども発展、「姪浜千軒」と呼ばれる賑わいを見せた。「愛宕山」は江戸時代から続く名所で、昭和初期にはロープウェイも開業。大正期以降、姪浜は炭鉱の町としても栄え、戦後の閉山後、周辺は埋立てられ、豊浜と呼ばれる住宅地となった。その後、愛宕浜の埋立ても行われ、住宅地の整備、大型マンションの建設が進められたほか、大型公園や商業施設も誕生した。


昭和30年代の姪浜の街並み

写真は昭和30年代の姪浜の様子で、手前中央が「名柄川」河口付近にある魚市場、手前左が「能古島(のこのしま)」への渡船場、右の家が密集しているところが「姪浜宿」から発展した町の中心部。左の湾曲している海岸付近では海苔の養殖が行われていた。その後に白く写る山は「早良炭鉱 本坑」のボタ(石炭くず)山、その右の山が「愛宕山」。 MAP __【画像は昭和30年代】

姪浜の沿岸部は1982(昭和57)年から1988(昭和63)年に埋立てが行われ「西福岡マリナタウン」と命名され、愛宕浜の住宅地などが誕生した。また、隣接する「マリノア地区」は九州最大級のアウトレットモール「マリノアシティ福岡」をはじめ、マリーナ、ホテル、観覧車などがあるリゾートエリアとなった。写真は「マリノアシティ福岡」から東を望んでいる。 MAP __

「愛宕山」と「愛宕山ケーブルカー」 MAP __

「愛宕山」は「室見川」の河口西岸にある標高68mの山。72(景行天皇2)年に「鷲尾権現」が祀られたといわれ、古くは「鷲尾山」と呼ばれていた。江戸初期の1634(寛永11)年、福岡藩二代藩主黒田忠之が京都から「愛宕権現」を勧請し、山自体も「愛宕山」と呼ばれるように。1901(明治34)年、「鷲尾神社」と「愛宕神社」を合併し「鷲尾愛宕神社」となった。写真は昭和30年代、海側から撮影された「愛宕山」。【画像は昭和30年代】

現在「鷲尾愛宕神社」は一般に「愛宕神社」と呼ばれる。「日本三大愛宕」の一つと称し、多くの参拝者が訪れ、特に初詣には約50万人ともいわれる人出で賑わう。写真は、「マリノアシティ福岡」から撮影した「愛宕山」。

1928(昭和3)年創業の「愛宕山ケーブルカー」は、写真のとおりロープウェイで、一般にいうケーブルカー(鋼索鉄道)ではない。ロープウェイとしては日本で2番目、九州初となるもので、現在の「明治通り」愛宕下から「愛宕神社」の境内地の丘の上までをおよそ2分で結んでいた。車体は8人乗りの箱型の2台で、窓からの景色や物珍しさから、参拝者、観光客などで賑わった。しかし、戦時下に入り、従業員の徴兵やロープ・車体の供出などから1943(昭和18)年に姿を消した。 MAP __【画像は昭和戦前期】

山上駅跡は2017(平成29)年に発掘、整備された。写真は乗降場跡。この山上駅跡の場所は、「鷲尾城」跡でもあり、近年まで、この城が「元寇(げんこう)」の後、鎌倉幕府が設けた九州の防衛拠点「鎮西探題」の「探題城」と考えられていた。

大正期に開かれた「姪浜炭鉱」 MAP __(煙突があった場所付近)

1914年(大正3)年に設立された「姪浜鉱業」により、「愛宕山」の北側に「姪浜炭鉱」が開かれた。1929(昭和4)年、「姪浜鉱業」は西新・小戸などに炭鉱を持つ「福岡炭鉱」を買収、「早良鑛業」と社名を変更、ここの鉱山名は「姪浜炭鉱」から「早良炭鉱 本坑」へ改称された。戦前には約20~30万tの出炭があった。周辺には炭鉱住宅が建ち並び、最盛期の1935(昭和10)年頃には従業員とその家族は8,000人以上が暮らしたという。写真は「愛宕山」からの撮影で、煙突は従業員浴場のためのもの。【画像は昭和戦前期】

炭鉱は1962(昭和37)年に閉山、経営していた会社は、現在は地域の不動産開発事業や自動車教習所の運営などを行っている。煙突があった場所は現在の住宅展示場付近。

豊浜の埋立てと住宅地開発 MAP __

1962(昭和37)年に閉山した「早良炭鉱 本坑」の跡地の北側の海面は、「日本住宅公団」による「豊浜地区宅地開発事業」により、1964(昭和39)年から1968(昭和43)年にかけて埋立てが行われた。一帯は「早良鑛業」がボタ捨て場として公有水面埋立権を所持し、約80%は埋立てられていた。また、標高40~60mのボタ山も3つできていた。公団は宅地開発事業にあたり、埋立権の譲渡を受け、ボタ山のボタを使用して埋立てた。写真は1965(昭和40)年頃の「愛宕山」から北西方向の撮影で、ボタ山を切り崩して運び埋立てを行っている様子。【画像は1965(昭和40)年頃】

宅地造成が完成した1967(昭和42)年頃、「愛宕山」から北方向の撮影。ボタ山はなくなり、護岸は直線的に整備されている。手前の建物は「早良鑛業」の事務所。写真右の少し盛り上げて造成された区画は、現在の「豊浜公園」。【画像は1967(昭和42)年頃】

豊浜の造成地は1968(昭和43)年から分譲され、一戸建ての住宅地(現・豊浜一・二丁目)となった。北側と西側の護岸沿いには防風林が植えられた緑地帯(現「豊浜緑地」)が作られた。写真は昭和40年代、「愛宕山」から北東方向の撮影。【画像は昭和40年代】

「愛宕山」から北西~北東方向を撮影したパノラマ写真。写真中央に見えるショッピングセンターの右の一戸建て住宅地が豊浜。豊浜より北側の海岸は1982(昭和57)年から1988(昭和63)年に埋立てられ、愛宕浜地区が誕生している。


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