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戦後の復興

戦前期、飛行機産業など工業が発展していた名古屋は、「太平洋戦争」では徹底的に空襲の標的とされ、焼失した面積は当時の市域の約1/4ともいわれる。終戦後、名古屋市は復興に向けた取り組みにいち早く着手、復興土地区画整理や、都心部の墓地の郊外移転など、大規模な都市の改造も行った。2本の「100m道路」や「名古屋テレビ塔」は、戦後名古屋の象徴といえる存在となった。「名古屋駅」などには全国に先駆けて地下街が整備され、「名古屋空港」は新しい空の玄関口に。プロ野球「中日ドラゴンズ」の本拠地となるスタジアムも誕生した。


戦災からの復興都市計画で誕生した「100m道路」 MAP __

現在の名古屋の都市の特徴となっている2本の「100m道路」は、戦災からの復興都市計画で誕生した。「100m道路」自体は都市の防火や美観のため、政府が1945(昭和20)年に決定した「戦災復興計画基本方針」の中に盛り込まれたため、戦災を受けた全国の大都市で計24本計画されたが、「GHQ」の反対や緊縮財政などもあり1949(昭和24)年に再検討が求められたこともあり、結局3本の完成にとどまった。そのうちの2本が名古屋市の「久屋大通」と「若宮大通」であった(もう一本は広島市の「平和大通り」)。名古屋で「100m道路」が実現できた理由としては、戦災の被害が大きかったこと、着手が早かったこと、市長などのリーダーシップ、近世からの碁盤割から一街区分をそのまま道路とすることで、ほかの街区への影響が少なかったことなどが考えられている。

写真は昭和中期の「久屋大通」。完成は1963(昭和38)年であるが、戦後早くから整備が開始され、1955(昭和30)年頃には概ね完成し、中央部分には広場が設けられた。【画像は昭和中期】

写真は現在の「久屋大通」。中央部分の広場は、1970(昭和45)年に「都市公園法」に基づく都市公園「久屋大通公園」となった。


時代によって移動していったメインストリートと街の中心地

現在の名古屋を代表する大通りは、東西の「広小路通」と南北の「久屋大通」で、その交差点に近い「栄」は、この街一番の賑わいを見せている。しかし、かつての賑わいの中心はもっと西にあった。江戸時代の当初は現在の南北の「本町通」と東西の「伝馬町通」がメインストリートで中心地はその交差点「伝馬町通本町」だった。1660(万治3)年の「万治の大火」で「広小路」が整備されると、東西のメインは「広小路」へ移り、中心地は「本町通」との交差点「広小路本町」となった。

名古屋駅」付近は当初、名古屋市外で、市街地からもはずれた閑散とした場所であったが、駅が開設されると「広小路通」が延伸され路面電車も開通、市の中心部と結ばれ、旅館などが立地する名古屋の玄関口として発展。昭和戦前期には駅舎の移転や「桜通」の整備、名鉄・関西急行(現・近鉄)の乗り入れ、戦後には市営地下鉄や「東海道新幹線」も乗り入れる巨大ターミナルとなり、商業的な中心地としても賑わいを見せるようになった。

「名古屋放送局」

昭和前期の「名古屋放送局」。MAP __
【画像は昭和前期】

「名古屋市立丸の内中学校」

「名古屋放送局」の跡地は「名古屋市立丸の内中学校」などになっている。

現在の中区三の丸には、1925(大正14)年に全国で三番目の放送局である「名古屋放送局」(現「NHK名古屋放送局」)が開局(現在は東区東桜へ移転)。昭和期に入ると、県庁・市役所も「騎兵第三連隊」跡地の現在地に移ってくるなど、名古屋の官庁街として発展していった。

名古屋の街は1945(昭和20)年、米軍による二度の空襲(「名古屋大空襲」)で中心部が焦土と化した。しかし、そこからの復興は早く、2本の「100m道路」である、東西の「若宮大通」と南北の「久屋大通」が、戦後の名古屋を象徴するメインストリートとして整備された。

以上のように、名古屋の街は、時代によりメインストリートや中心地が変わりつつも、江戸時代の東西南北の道路が整然と通る「碁盤割」を基礎として、発展してきた。


1954(昭和29)年に完成した「名古屋テレビ塔」 MAP __

「名古屋テレビ塔」は1953(昭和28)年から建設が始まり、翌年に完成した日本初の集約電波塔。設計は「東京タワー」、二代目「通天閣」「別府タワー」「さっぽろテレビ塔」などの塔も手掛けた建築家・内藤多仲氏。高さは約180mで、当時は東洋一を誇った。写真で「名古屋テレビ塔」の左に見える白い大きいビルは、テレビ塔と同年に完成した「興和」の本社ビル。繊維などの商社や「コルゲンコーワ」をはじめとする医薬品メーカーなどで知られる会社で、現在は「丸栄」の親会社でもあり、栄の再開発にも大きく関わっている。【画像は昭和中期】

「名古屋テレビ塔」は「100m道路」とともに、名古屋の戦後復興のシンボルとなった。2021(令和3)年から、ネーミングライツにより「中部電力 MIRAI TOWER」と呼ばれている。

1957(昭和32)年に開業した「地下鉄栄町名店街」 MAP __

名古屋の地下鉄建設計画は戦前からあったが、戦後の1957(昭和32)年11月15日に地下鉄1号線(現・東山線)の名古屋~栄町間が開通した。同年3月18日には地下鉄開通に先駆けて、「名古屋駅」駅前の地下に「ナゴヤ地下街」(現「名駅地下街サンロード」)が誕生した。「ナゴヤ地下街」は本格的な地下街としては国内初のものといわれる。

写真は1957(昭和32)年11月15日、地下鉄1号線開通と同日に開業した「地下鉄栄町名店街」。「錦通」の下、「栄町駅」(現「栄駅」)の上に建設された。名古屋市内では3番目、栄地区では初の地下街だった。1957(昭和32)年、名古屋市内では「ナゴヤ地下街」に始まり、5つの地下街が開業している。【画像は1957(昭和32)年頃】

「地下鉄栄町名店街」として開業した地下街は、現在は「栄 森の地下街」の一部、「中央一番街」の部分となる。地下鉄東山線の改札そばの便利な場所に位置し、地下鉄利用客などで賑わっている。

「中日ドラゴンズ」の本拠地だった「中日スタヂアム」 MAP __

「中日スタヂアム」は1948(昭和23)年、軍需工場の跡地に建設された球場で、プロ野球球団「中日ドラゴンズ」の本拠地としても使用された。当初は木造であったため、1951(昭和26)年、試合中に発生した火災で全焼となり、翌年、鉄筋コンクリート造で再建された。写真は昭和30年代の「中日スタヂアム」。写真左上に東海道線の線路が見えるが、のちに並行することとなる「東海道新幹線」はまだ建設されていない。【画像は昭和30年代】

1975(昭和50)年、「中日新聞社」、「名古屋鉄道」、「中央信託銀行」(現「三井住友信託銀行」)など、地元大手企業31社が出資した新会社「株式会社ナゴヤ球場」(現「株式会社ナゴヤドーム」)の経営となり、球場名も「ナゴヤ球場」へ改称。1997(平成9)年に「ナゴヤドーム」(現「バンテリンドーム ナゴヤ」)が完成すると、「中日ドラゴンズ」の一軍の公式戦はそちらへ移り、二軍の本拠地・練習場となった。現在はスタンドが縮小され、ナイター設備も撤去されている。

名古屋の空の玄関口だった「名古屋空港」

「名古屋空港」の前身は、1944(昭和19)年に建設された旧陸軍の「名古屋地方防空飛行場(小牧飛行場)」。戦後は米軍の管理下に置かれていたが、1958(昭和33)年に返還され、「名古屋空港」となった。2005(平成17)年の「中部国際空港」の開港により、国の管理を離れ、「県営名古屋空港」となっている。
MAP __【画像は昭和中期】

「中部国際空港」の開港により不要となった「名古屋空港国際線ターミナルビル」(1999(平成11)年開業)は、ショッピングセンター「エアポートウォーク名古屋」としてリニューアルされ、2008(平成20)年に開業した。展望デッキの「スカイラウンジ&ビューデッキ」があるほか、搭乗口を利用した連絡通路や、かつてのエプロン(駐機場)を使用した駐車場など、随所にターミナルビル時代の痕跡を見ることができる。2017(平成29)年には、隣接して「あいち航空ミュージアム」がオープンしている。写真右が「エアポートウォーク名古屋」、左が「あいち航空ミュージアム」の建物で、その左手(写真外)が、旧写真にあった、かつてのターミナルビル跡地付近となる。
MAP __(エアポートウォーク名古屋)


次のページ 1959(昭和34)年頃の観光案内図


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