このまちアーカイブス INDEX

新しい名古屋、戦後の発達

「太平洋戦争」の戦災で大きな痛手を受けた名古屋だが、そこからの復興は早かった。「100m道路」や「名古屋テレビ塔」は、戦後名古屋の復興の象徴といえる存在となった。「名古屋駅」には、いちはやく地下街が整備され、「名古屋空港」は新しい空の玄関口に。プロ野球、中日ドラゴンズの本拠地となるスタジアムも誕生した。


1954(昭和29)年に完成 当時は東洋一の高さ MAP __

名古屋の戦災復興のシンボルとして、1953(昭和28)年から建設が始まり、翌年に完成した日本初の集約電波塔である「名古屋テレビ塔」。設計は「東京タワー」と同じ建築家・内藤多仲ほか。高さは約180mで、当時は東洋一を誇った。【画像は昭和中期】

戦後名古屋のシンボルとなった「名古屋テレビ塔」は、60年以上を経た現在も堂々たる姿を保っている。

1957(昭和32)年、地下鉄が開通 地下街も誕生 MAP __

名古屋の地下鉄建設計画は戦前からあったが、戦後の1957(昭和32)年11月15日に1号線(現・東山線)の名古屋・栄町間が開通した。同年3月18日には地下鉄開通に先駆けて、「名古屋駅」地下に「ナゴヤ地下街」(現「名駅地下街サンロード」)が誕生した。【画像は昭和中期】


名駅、三の丸などの発展 戦後に2本の「100m道路」

「名古屋放送局」

「名古屋放送局」。【画像は昭和前期】

現在の名古屋を代表する大通りは、東西の「広小路通」と南北の「久屋大通」で、その交差点に近い「栄」は、この街一番の賑わいを見せている。しかし、かつての賑わいの中心はもっと西にあり、江戸時代には現在の「本町通」が南北のメインストリートであった。

一方、かつて、「名古屋駅」付近は市街地からはずれた場所であったが、鉄道や路面電車が開通し、「広小路通」により市の中心部とも結ばれるようになる。1937(昭和12)年には、駅舎が移転し、「桜通」も整備され、駅周辺の発展に拍車がかかった。そして、名鉄や近鉄線、市営地下鉄線がこの駅に乗り入れることで、この地区の集客力がさらに増していった。また、現・中区の、三の丸地区には、1925(大正14)年に全国で三番目の放送局である「名古屋放送局」が開局(現在は移転)。昭和に入ると、県庁、市役所も「騎兵第三連隊」跡地の現在地に移ってきた。

名古屋の街は1945(昭和20)年、米軍による二度の空襲(「名古屋大空襲」)で中心部が焦土と化した。しかし、そこからの復興は早く、2本の「100m道路」である、東西の「若宮大通」と南北の「久屋大通」が、戦後の名古屋を象徴するメインストリートとして整備された。また、1954(昭和29)年には「名古屋テレビ塔」が竣工している。

名古屋は、現在も江戸の碁盤割を受け継ぎ、東西南北の道路が整然と走る街となっている。


南北に貫く幹線道路 「名古屋テレビ塔」が建つ MAP __

名古屋には「100m道路」と呼ばれる幅の広い道路が2本あり、その1つが市中心部を南北に貫く「久屋大通」である。この道路は戦後の復興都市計画の目玉として火災の延焼防止と非難所となることを目的に1963(昭和38)年に完成、中央帯には緑豊かな「久屋大通公園」が設けられた。【画像は昭和中期】

「100m道路」は、名古屋市のスケールの大きさを表す尺度として、常に語られてきた。

かつての中日ドラゴンズ本拠地 後に「ナゴヤ球場」に改称 MAP __

かつて「中日ドラゴンズ」の本拠地であった「中日スタジアム(現「ナゴヤ球場」)」。1948(昭和23)年、軍需工場の跡地に建設され、公式戦では翌年から使用された。その後、火災による全焼を経て再建された。【画像は昭和中期】

新しい空の玄関口 1958(昭和33)年に「小牧飛行場」を改称 MAP __

「名古屋空港」の前身は、1944(昭和19)年に建設された旧陸軍の「名古屋地方防空飛行場(小牧飛行場)」。戦後は米軍の管理下に置かれていたが、1958(昭和33)年に返還され、「名古屋空港」となった。2005(平成17)年の「中部国際空港」の開港により、国の管理を離れ、「県営名古屋空港」となった。【画像は昭和中期】


次のページ 観光地図で巡る「昭和中期の名古屋」


MAP

この地図を大きく表示



トップへ戻る